家庭は盟友(教皇講話④)

手元のTIMEより。教皇講話最終回。牧者は神のことばを穏やかに、しかし情熱をもって宣べ伝える者であり、信者たちが高みを目指すように鼓舞する者です。そうすることで、信者たちは、神さまとの新しい親しさを体験し、その中で彼らが母であり父である体験を広げることができるという神様の約束に兄弟姉妹たちもまた耳を傾け、体験できるようになるでしょう。

牧者は自分の群れについて夢を持ち、その生活、成長に目を凝らしている者です。目を凝らすというのは、話すことではなく、世話をしていなければできません。群れの真ん中に立つことのできる人だけがなしうることであって、質問を受け、触れ合い、同伴するのを恐れている人にはできることではありません。

牧者は、何よりもまず祈りによって見張る者であり、その存在をもって人々の信仰を支え、主への信頼を徐々に深めていく者です。牧者は、人々が落胆し、欲求不満を抱き、失敗するとき目を上げて歩めるように警戒し続ける者です。わたしたちの司牧活動は、はたして、人々と時間を費やす用意がで手元のTIMEより。きているものであるかどうか良く問う必要があります。果たして、彼らに自分を差し出し、彼らの困難さや喜びを共有する用意ができているかどうか。

当然のことですが、神とのこの喜びに満ちた親しさを経験し、その力強い福音の豊かな実りを広げることは私たち司教の一義的生活様式の特徴となるべきことなのです。そうです、「私たちは祈りとみことばの奉仕に専念することにします」(使徒6.4)と言って7名の助祭を選んだ弟子たちのように、です。(中略)司教の第一の務めは何でしょうか。祈ること。第二番目は?み言葉への奉仕。他のことはすべてこの二つからもたらされます(ミューラー枢機卿)。

…教会と家庭の間の契約を深めること。それがなされないと、家庭は潤いを失い、喜びに満ちた神の良きおとずれから離れてしまい、何か欲しいものを求めて例のスーパーマーケットに向かうことになるでしょう。つまり、私たちが、良くない畝に忍耐と穏やかさを強いられながら、神の愛を反芻しつつ信仰の種を播いていくことができるなら、あのサマリアの女やザアカイがキリストと出会うことに手元のTIMEより。なったように、神が、家庭と教会との身近さを新たな恵みとしてくださることになるでしょう。

家庭は、私たちの支え合う仲間、世界への窓。すなわち、家庭は、難しくても美しい被造界、つまり私たちに奉仕してほしいと神が求めておられるこの地上に生まれたすべての子らに定められた神の取り消されることのない祝福の証拠なのです。

*お断り:正確な訳ではなく自分の解釈も入っています。また、本文の写真はフィラデルフィアで配布されたTIME誌の特集号からです。

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☆神に仕える身でありながら、カミガミ(紙々)の要らない世界を標榜する人間の一人として、電子メディアに自分の思いを綴ることは大きな喜びです☆本を書かない代わりにここでいろんなことを書いてみたい。

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