百済がそこに!

古代船 それでも!Blog

古代船百済は海上強国だった。徳山 教会から1時間、なんとかつての百済の都がこんなにも近くにあったとは!しかも、4日間も滞在して、2人ともすっかり気に入ったウムナの町が日本の古代史に重要な意味を持つ特筆すべき場所のすぐ近くだったとは!

忠清南道礼山郡徳山面(町)の隣町扶余郡。錦川の畔にあって百済の都跡と言われているのが扶余。新羅はソウルを含み、高句麗は北朝鮮となった。6世紀、百済からもたらされた仏教。高校時代、百済の三毛猫ゴロニャン=仏教伝来562年、と覚えたものだが、その百済が一気に身近になった。

いいものは百済から。百済からでないものは百済ではない。つまりくだらないの語源になったと言われている。案内所の日本人スタッフも自信なげだったが…。

1400年もの時を超えて古代人が語りかけて来そうなうっそうとした森を歩くこと約40分。思いがけない山歩きとなって大汗をかいたが、丘を下ると滔滔と流れる錦川の畔で遊覧船が待っていた。小さな岬を一回りするともう船着場。

忠清南道、公州市、扶余郡の三自治体共催による9月26日から始まるという第60回百済文化祭用の古代船が2隻係留されていた。中国、日本と積極的な外交政策を打ち出した百済王国。今はおしゃれな観光都市だが、ひっそりと祭りを待つ古代船には、海の向こうのまだ見ぬ地に心はやらせた熱い思いの百済兵士たちの幻影が群れているようだった。

660年、唐と組んだ新羅に滅ぼされた。東の新羅、西の百済。いまだに政治的対立が続いているという。*明日からMEアジア会議でシンガポール。韓国で書き溜めたものを一挙に公開しました。しばらくはまたお休みになるかも。

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