教皇は愛の賛歌を口ではなく行動を持って歌う

愛は情け深い(親切)

愛の賛歌(1コリント13,4-7)に見られる愛の諸相の第一は「忍耐強い」だった。第二は「情け深い」だが、単純に「親切」ということらしい。ギリシャ語原文では「行いによって善をなす善い人」という言葉に由来する語がつかわれているからだという。ちなみに英語の訳も親切kind 。教皇によると、親切とは、いつでも他人に助けの手を伸べる用意ができていることをいう。

愛は行いで

愛の諸相のいずれにも言えることだが、愛とは単なる情緒の問題ではなく、ヘブライ語の愛するという語が善い業をなすという意味合いで使われることに沿った形で理解されていることに注目する必要がある。ロヨラのイグナチオも言っていることだが、「愛は言葉よりも行いによってよく表わされる。」

ゆっくりペースの愛?

ここまでは、誰もがそうだと頷くことができるが、教皇はそれだけで満足しない。「愛は、与えることの幸せ、つまり、惜しみなく自分を使い果たす崇高さ、報いを求めることなく純粋に与え奉仕する喜びを体験させてくれる」(愛のよろこび#94)。息つく間もなく愛の業に駆り立てられれているかのような印象を受ける教区の姿は、ボクには眩しすぎて、「身が持ちそうにない」のだが。「ま、ま、もっと気楽になさってください」と労をねぎらいたくもなるが。

愛はねたまない

これは日本語も同じ。つまり、愛は 誰かが出世したり成功したときに「え?あの人が?」と素直に喜びを表明できない状態とは無縁。妬みは、他人の繁栄に対する一緒の悲しみであり、それは、結局人は、他人の幸せよりも自分自身のいいことだけに関心を持ちたがることの表れ」。しかしながら、愛は私たちを自分中心から引き上げ、妬みは私たちを自分の中に閉じ込めてしまう。本当の愛は、他人の業績をきちんと評価することができる。それは、その人を自分にとっての脅威とはみなさないからだ。こうして、愛は、ねたみのもつ後味の悪さから私たちを救ってくれる。愛は、誰もが違う賜物を持ち、その人の人生には独自の道があることを認めている(以上同上#96の部分私訳)。

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