神の記憶、初めて目にする言葉具体的にどんな状況のことをなのか自分なりに考えてみた

胎内からの出発

安全のうちにすくすく成長。人の子もこうありたい。毎回のことで気が引けるが記憶が定かでない。「赤ちゃん胎内からの出発」だったか、30年ほども前になるかと思う。吉野教会にいたとき、NHKの番組を録画したものが結婚セミナーの資料として提供された。胎児が指しゃぶりをする様子に驚いたものだ。何よりも胎児が外部の声を聞くことができることも紹介されていた。泣き止まない赤ちゃんに母親のあやす声(心臓の鼓動だったかも)を聞かせると泣き止む様子も紹介されていた。つまり、赤ん坊は胎内時代に聞いていた母親や外部の声を記憶していたということになる。

最も強い欲求

ところで、「神は永遠から私たちを愛してくださった」ということに異議を唱える人はいないと思うが「頭ではわかる」というのが正直なところではないかと思う。ここで少し難しいことを書いてみたい。人間のもっとも強い欲求は「大事にされたい!」つまり「愛されたい!」ということだという。幼少期にこの欲求が満たされないとなんとしてでも手に入れようとするのだという。いわゆる非行は「ワタシを、ボクを見てほしい!愛してほしい!」というメッセージであって、非行そのものが本当の目的ではない。こうした、姿をモンテッソーリ教育論では「逸脱」という。

記憶と現実

「みんな共犯者」。彼女は何を思う。「自分が今置かれている恵まれた環境はうまく言えないがどうもあの時代のものとは違う。胎内での穏やかでチャプチャプと浮いていた時代の心地よさとはどこか違う。誰もが自分を気遣い、母親に優しくし、いたわりの言葉をかけ、誕生を首を長くして待っていたあの時の感じとはどこか違う。」言葉にはできないあいまいさがイライラを募らせ自分なりに出した結論が非行。「記憶と現実のギャップに戸惑っているだけ」と言えば「他人ごと!」?

神の記憶

勝手な想像を巡らして気がついたというか、教皇が言う「神の記憶」という耳慣れない言葉の意味が少し分かったように思った。人が普遍的に体験するあの羊水の中での十か月間こそ、神の愛に抱かれた神の記憶だったのではないのか。もっとも、爆弾や戦車の音におびえながら避難を強いられている中東の避難民の人々のことを思えば、不安な毎日という胎児もいるかもしれない。しかし、神様から大事にしてもらったという記憶がかすかでも、人は愛する力を失ってはいない。毎日配信される朝日新聞デジタルには悲惨なニュースも多いが、思わず胸が熱くなる記事も多い。「ああ、この人たちも神の記憶を失ってはいない」と慰められることは多い。

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☆神に仕える身でありながら、カミガミ(紙々)の要らない世界を標榜する人間の一人として、電子メディアに自分の思いを綴ることは大きな喜びです☆本を書かない代わりにここでいろんなことを書いてみたい。

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