帰国して改めて思う中国教会の苦悩の深さは生半可な知識で解説できるような性質のものではない

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懇願の祈り

中国MEのショーLOVEと書いた

最後の晩餐会での中国MEのショーLOVEと書いた

中国国内で教会のことを書くのは、日本語と言えどもはばかられた。相手のいいところばかりを見ようとするのがいいと書いたが、その続きみたいなことを書いて見たい。ミサの聖歌が元気なことについては触れた。元気な歌声を聞けば聞くほど泣けてくるのはどうしてか。ボクにはどうしても、神様に必死に叫んでいるように聞こえるのだ。叫ぶというか懇願と言った方がいいかも知れない。それにしても、こんなにものびのびと力一杯神様を賛美できるのはなぜか。それに、多くのMEカップルがボランティアとして会場に出入りし、司祭はローマンカラーで出入り自由。監視されているのではないかという緊張感やわざとらしい振る舞いは一切感じられない。

信仰の自由のために

ワン神父さんは聖歌でも会衆をリード

ワン神父さんは聖歌でも会衆をリード

もしかして、一定の条件を守ってくれさえすれば全て自由です。その条件とは「ホウレンソウ」つまり「報告・連絡・相談をきちんとやりさえすればよろしい」というものではないのか。実は次のようなことがあった。ハイペン教区での開会ミサ後の歓迎晩餐会でのことだ。会食が佳境に入った頃、司教様が立ち上がり、お付きの司祭とともに参加者に親しく声をかけながらテーブルを回って挨拶された。

もしかして?

決して怪しいものではない

決して怪しい者ではありません

話が弾んで気がつかなかったのだが、挨拶回りははとっくに済んだはずなのに左横の司教さまの席は空いたままなのだ。世話役のドミニコ神父さんに聞いても「大丈夫。心配しなくていい」と取り合ってくれない。その時はそれほど気にも留めなかったのだが、翌日になってふと閃いた。「司教さまは別室で政府の役人と接触しておられたに違いない。カクカクシカジカ異常ありません…」とかなんとか。「多くの外国人が同席している時には特に気をつけるように」ということになっているのかしれない。全くの憶測だが。

したたかに

身を縮めてもしたたかに

身を縮めてもしたたかに

そして、政府はこの条件をうまく利用している。どこでも行きたい国に行っていいので多くの神学生や若者がフィリピンで英語の勉強に行く。蘇州教区の司教様のようにアメリカで10年も勉強することだって可能。しかし、ホウレンソウは遵守すること。こうして、政府はあらゆる国から情報を集めることができるというわけだ。なかなか巧妙だ。あ、繰り返すが、もちろんこれは根拠のない個人的な憶測にすぎない。ともあれ、教会当局が多くの条件を受容したのと引き換えに信者たちには信仰の自由が保証された。政府も教会もしたたかに。負けるな教会。

 

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