「これこそイエスのスタイル、そしてキリストの弟子の宣教のスタイルです。」講話集5(14頁)

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教皇はアニメーター

注文先:〒135-8585江東区潮見2‐10‐10

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「神父さんの説教はいきなり本論だね」と言われたことが忘れられない。若いころから今に至るまで変わらないように思う。タイトルもいきなり結論めいてしまった。フランシスコ教皇の講話集5が届いた。早速、ページをめくって、思わずわが意を得たりと膝を叩いたワケ。というより、「それでよかったのです」と言われているようで嬉しくなった。というのも、「何にもしない司教でした」と自虐的に言う自分が今もある。なぜ何もしなかったかといえば、そんな能力がなかったからというのが結論。もう一つは、神学校の授業で「宣教は信徒がする」と教えられたことがある。司祭は”アニメーター”つまり、”信徒を元気づける者”。アニメーターはアニマ(魂)に由来する言葉なので、「司祭は信者の魂を活性化する人」というのが、司祭叙階以来変わらない信条。もちろん、ボクのせいで元気を失った信者や司祭もいるに違いないのだが。

ということで、この信条は司教叙階後も変わることはなかった。その結果、「年間目標などなくていい」ということになったわけで、何もしなかった。ただ、「アニメーターでいたい」という信条に生きたつもりだ。それでも、時々耳にした辛口の評価はそんなボクをチクリと刺した。その度に、「何もしない信条」を選びなおしていたわけだが、それなりにつらい気持ちになったことは間違いない。かといって、「旗振り」をする気にはなれなかった。せいぜい、年頭のあいさつで、「今年はこんな風に生きて欲しい」と訴えるのがやっとだった。

大きな可能性

二つの大きな可能性

二つの大きな可能性

「真の宣教とは、改宗を強いることではなく、人々をキリストに引き寄せることです。…それは祈り、礼拝、そして目に見える愛のわざ…を通した、キリストと強く結ばれることから生まれる、あの証をもってです」(14‐15頁)。これは、主の洗礼に関する講話だが、それならボクにもできそうだし、かなり、手抜きだったとはいえ、そんな気持ちでやってきたという自負がある。ともあれ。こうした感想は自分の胸に秘めて置くだけでいいのかもしれないのだが、それに今ごろ書くと弁解にしかならないと分っているのにやっぱり書いた。老婆心でもう一言書けば、鹿児島教区の今後もこうあってほしい。大きな可能性を秘めた霊性だ。

 

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