2006/12/11
のんびり・サンデー
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2006-12-11 12:15
last modified
2006-12-12 20:48
昨日は、何ヶ月ぶりかに予定なしの文字通りオフの日曜日。久しぶりにゆったりした気分を満喫。日も射してきたので洗濯物を外に干した。
午後2:00。市民クリスマスは当ザビエル記念聖堂。5分前に部屋を出ても余裕。まるで隣の部屋に行くような気軽さがいい。約五百人の参加者で超満員。
フランシスコ会司祭本田哲郎神父さんの話は、聖書の勉強みたいだった。幼子の誕生は宿がなく仕方なしに家畜小屋ではない!生まれ故郷に名を届けるために帰ったのだから親戚縁者はいなかったのか?子どもが生まれるというのに知らん振りは考えられない。真っ先に駆けつけたのが、羊飼いに東の国の博士たち。彼らは当時のならず者に異教徒の罪びと、なのだという。ヨセフもいわゆる大工さんではなかった。石を切り出す最下層の労働者。
そこまではいいとして・・・。聖霊によって身ごもった?レイプの被害者だったかもしれない。それを聖霊によって、と言わざるをえなかった云々には、思わずギョッ!神父さんがますます先鋭化してしているのが少し怖かった。
フォンティーヌ鹿児島の演奏はすばらしかった。モーツアルトを二曲も演奏したので、夏に訪れたモーツアルトの故郷ザルツブルグの美しい町並みが蘇った。
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マリアがローマの兵士の子供を生んだと言う話、これはもともと、古代の、キリスト教誹謗文献に初出の話。
もとより何の歴史的根拠もない想像にすぎない。
まともな史家、学者は誰も相手しないものだ。
それをどこからか聞き込んで来て、得々としゃべっている本田師、その無知と軽率、言う言葉なし。
司教さんもお困りだろう。
年代に書かれてから、ずっと後である。
この文書の名前、小生残念ながら失念。たしかユダヤ教系アラム語の文書だったと思うんですが。
この文書を知っていると思われる人に、元弘前大文学部教授三好氏がいる。氏は古代ユダヤ教アラム語に通暁している
殆ど唯一の日本人学者である。
必要ならお聞きしてもいいですが。
(角田信三郎・通称彦左衛門、元マタイ福音書研究者)
フランス西南部の小都市在住の日本人♀です。
聖家族のお話についてTBさせていただきました。
駄文拙文ですがご笑覧いただければ幸いです。
よろしくお取り計らいくださいませ。
どころではないのではないでしょうか?
「大いに怖かった」でも不足。
フランシスコ会司祭本田哲郎神父の言動に対して、司教様は
カトリック教会として破門でも不思議ではない、最低限 司祭職停止、の処置をとられるべきだと考えます。
フランシスコ会もなぜ放置するのでしょう。
早めに止めないととめどなく周囲を害毒で染めて行きます。
彼は、本田師の言動について、一定の範囲で、注意勧告や、叱責や、禁止、その他の制約を課することができます。それは権利であると同時に、義務、責任の遂行です。つまり監督』責任と言うもの。
一方、市民クリスマスを催された郡山司教は、教区の中で、宣教、司牧がが適切に行われることに責任を持っています。ところが、本田師の暴挙、暴言によって、それが大きく阻害された。しかし司教は、言うならば、被害者です。事態を正常化して、二度とこういうことがおきないようにする責任はありますが、本田師に直接、職務停止や司祭職剥奪などの強制措置を下す、権限や義務はありません。
それで司教はどうなされるべきだろうか。 おそらくことの顛末をフランシスコ会管区長に伝え、管区長と合議の上、しかるべき処置をとって貰うことでしょう。
また本田師の従来の活動地域は、大阪教区です。これまでの本田師の大阪での問題言動については(そういうものがあったことは大きな確率で推定できます)、これを野放しにしていた大阪大司教に道義的に極めて大きな責任があります。
大阪大司教には、フランシスコ会管区長とともに、被害者である郡山師と鹿児島教区民、その他に謝罪し、また他方、本田師への厳重戒告、場合によっては、職務停止、司祭職剥奪など、制裁措置をとる義務があります。(彦左衛門)
H.Sutoさん、本田神父さんにはかなり厳しいですね。
彦左衛門さんとやら、冷静なコメント有り難うございます。
>市民クリスマスを催された郡山司教は、
市民クリスマスの主催者はボクではありません。「鹿児島キリスト教会連合」という名の下に、市内の牧師・神父が音頭をとっています。毎年実行委員長が交代します。今年はカトリック教会担当で会場がカテドラルになっただけです。念のため。
ともあれ、皆さんの怒りが相当のものであることを知って驚いています。こちらでは、「たとえそうであっても、いや、だから『それでも、喜び・希望・感謝』(ボクのモットー)なんです」という信者もいたりします。「ウーン・・・」がボクの反応ですが。
ボクは、人を罰したりとか、とがめ立てが苦手なので。みなさんがそんなにも心配し、怒り心頭なのは確かに心配なことには違いないのですが、「小さくされた」方々が神父さんのお陰で元気になっているのも事実のようなので・・・。
『聖母がローマの兵士の子供を生んだと言う話は、古代の反キリスト教、
キリスト教誹謗文書に出て来る。古代と言っても、
マタイ福音書の御降誕物語が一世紀のおそらく70、80年代に、それまで
の教会の伝承をもとに書かれてから、ずっと後である。
この文書の名前、小生残念ながら失念。たしかユダヤ教系アラム語の文書だったと思う。』
以上に関してご教示をある人から頂いた。
聖母がローマ兵の子供を生んだと言う話は、2世紀中葉以降の人物、ケルソス(ラテン名、Celsus)の「真理の言葉』と言う著書に初めて出てくる由。
調べて見ると、このケルソス、当時発展、躍進を続けるキリスト教に対し、これに反対する異教側の理論的指導者を買って出た人物。福音書の提示するキリストの人物像について、やれその奇跡は信じるに足りないとか、何とか、その他色々難癖をつけているのだそうだ。
前前便の Celsosについて。彼の反キリスト教、キリスト教誹謗文書『真理の言葉』は、そのものとしては残っていません。
その内容が知られているのは、3世紀前半最大の
キリスト教神学者、教父オリゲネスが、この本を取り上げ、そこから引用しつつ、反論を加えているからです。
そのオリゲネスの書は『 ケルソス反論 Contra Celsum』と言い、これは教父全集などで、我々も今日読むことができます。残念ながら小生読んでいないのですが。
聖母がローマ兵の子供を孕んだと言う話、古代ユダヤ教系アラム語文書に初出と言うのは、小生の記憶違いです。慎んで訂正、撤回します。
但し、タルムードのどこかにその話が出ているとは聞いていますが。勿論ケルソスあたりからの孫引きです。
私は「本田神父さんにはかなり厳しい・・」とは思っていません。
彦左衛門さんが言われるように、対処なさるのが教会を指導なさる立場としては当然だと思います。 本田神父がカトリック教会の神父でなければ何も言いません。 彼はカトリック教会の神父として反カトリック教会の話を公にしているのではないでしょうか?
「「小さくされた」方々が神父さんのお陰で元気になっているのも事実」でしょう。
それだからといって、本田神父の言動が許されるものでは無いと考えます。
教会を中から崩壊させようとする力には厳然と立ち向かわれることを期待いたします。
本田神父様のこの造語に怒っている…身障者は多いです。
身障者だけでなく、心を病む方や経済的なことなどで悩む「弱者」を指してのようですが、
「じゃあ、自分は何なんだ?」と問い返したいです。言われた側にしてみれば、屈辱です。
変な隠語を拵えて、私達の存在を自分の都合次第でもてあそばないでいただけないかと、
思っています。あってないようなものかも知れないけど、沽券に関わるくらいに思ってます。
主なる神の前には、健康かつ何不自由なく暮す人の魂も、そのどれかに恵まれなかった人の魂も
同じではないのでしょうか?個々に主に与えられた命と身体、そして情況を、出来うる限り
自立した状態で(必要なところは助けていただく必要ありますが)精一杯に生きることが、
誰にでも与えられた使命と存じます。変なところで特別扱いを頂いてしまえば、例えば、
大人にならなくてはならないときに大人になれません。自立できる人も出来ません。
私達の人生に関わることをやりがい・生きがいにするのは、医療や福祉の仕事をされている方々の
健全なプロ意識に起因するものなら悪くないです。
しかし、人権屋さんや宗教屋さんのお神輿に乗っかるのは御免蒙ります。
私は幼稚園から高校卒業までカトリックの学校で育ち、都内の教会の日曜学校リーダーもつとめさせていただきましたが、いずれもクリスマス会では聖家族に関する聖劇が行われるのが習慣でした。学年を縦割りにしての行事ですが、OFMの本田神父さまのお話のまま自分で演じるのも、観劇するのも、子供に教えるのも躊躇われるものだというのが私における疑問点です。日曜学校にいた頃、信者さんのご父兄との面談でご自身がおじいさんになったら孫の枕元で聖書を読んで聞かせるのが夢だ、と言われたことも思い出しました。私がおばあさんになって孫に本田神父さまから聞いたままの話をすることができるのか?・・・恥ずかしくてできません。クリスマスは世界中の老若男女がイエズスさまのお誕生をお祝いできるのに、未成年向けと成人向けの話に分かれてしまうのは共に祝えなくなってしまうような気がします。これは悲しいです。これから日本のカトリックがどうなっていくのか知る由もありませんが(自分勝手な言い分なら)、母校や教会学校の聖劇では昔ながらの素朴な聖家族の話が演じ語り続けられて欲しいです。聖堂内のクレシュ(イタリア語のプレセビオ、馬小屋の様子を表した飾り人形)の様子もオトナしか覗けなくなっちゃう置物になっちゃったらどうしましょう?・・・と、つい先日も子供にクレシュの説明をする親の姿を見たばかりなので心配になりました(笑)。
郡山司教さまはこのエントリーをご覧になりましたか?
http://d.hatena.ne.jp/antonian/20061218/1166453780
鹿児島教区に籍を置くOFM第三会員の方が司教さまのエントリーについて書かれたものです。
ここでのコメントを拝見すると、本田神父さまのお話は同志社神学部では必修事項なのだそうです。
上智の神学部でも必修になっていたらどうしましょう!です。
郡山司教さまからのお返事をこうして拝見できてとてもうれしかったです。ありがとうございました。
本田神父さんが何を言おうと、学者の意見に過ぎません。教会が伝統的に継承してきた「イエスの物語」は私たちの信仰のふるさととして不変です。聖書は確かに学問の対象となります。けれども、一般の私たちは、教会が、「今後、本田神父さんの意見に従って下さい」と宣言しない限り、これまで通りで行くべきであって、動揺する必要はないのです。ちなみに、今回の皆さんからの反応については、フランシスコ会本部にお知らせして、皆さんの投稿を読んで下さるように案内しました。
塩梅さん
「小さくされた人々」という造語がそんなにも皆さんに不快感を与えていたことに驚きました。本田神父さんと直接対話できたらいいと思いました。
>私達の人生に関わることをやりがい・生きがいにするのは、医療や福祉の仕事をされている方々の健全なプロ意識に起因するものなら悪くないです。しかし、人権屋さんや宗教屋さんのお神輿に乗っかるのは御免蒙ります。
個人的には胸がすく思いです。こうした声はゼッタイ貴重です。声を大にして言って下さい。機会をみて何かの時(司教会議とか)ボクも言いたいと思います。
「小さくされた人々」についてですが、1980年頃だったか「小さなひとびとの、ひとりひとりを見守ろう」という典礼聖歌があり、あれを歌唱するとなぜかうなだれて聖堂を出るという心持になったものです。
カトリックではしばしば「身を低める」という話が出ますが、「小さくされた」という言葉を改めて見ると「他人によって小さくされてしまった」のであって自分で「小さくなった」のではありませんよね。私はマリアさまの謙虚さはご自分から「小さくなった」と思うのです。他人に「小さくなれ」と言われてガブリエルの前であの言葉を発したとは思えません。傲慢は神さまが悲しむ態度ですから他人から「改めよ」(ここでは「小さくなれ!」でしょうか)と命じられてもいたしかたありませんが、傲慢に至らない心を持つ人であれば自分から小さくなる(マリアさまのように)自由は各自が持っているのだと思います。自分から小さくなるという行為もうっかりすると偽善に繫がりかねないので、このあたりは神父さまやシスターやカトリックに好意を持ってくださる方々との交流でバランスを取れたらいいなあ、とも思います。傲慢と謙虚は永遠に個人の心の中で続く葛藤でしょうし、おそらく良心が行司役になりますか?
郡山司教さま、今こうしてインターネットでお話できることで平信者(← もしかして死語?(笑)のバランスを見極め、安定に導いてくださいませんか?
鹿児島教区民でありながらして、南関東地区のフランシスコ会第三会員です。宜しくお願いいたします。
本田神父様の言葉を切り取って聞いたならば確かにドン引きする話です。とはいえ神学世界にはさまざまな解釈もあり、その一つに過ぎないものでもあるし、まぁ本田神父様はえてして爆弾投げるのがお好きな方なので。。。。怒る人がいるのも当然でしょうね。
カトリックが揺籃してきた神学的世界はペリカン師がいう「伝統」(つまり「伝統主義」ではない)数多の先人達が伝えてきた美しき伝承によって構築されてきたもので、そうそう揺らぐものでもないし、本田神父の一種破壊的にも思える逆説的な言論すら、それに飲み込まれていくでしょうね。
「小さくされた」というのは解放の神学の流れでは社会的弱者に当てられ、それはある種の階級的な構造をあぶりだすものですが、階級的思考は「敵」と看做すものを生じせしめやすいので、まぁ皆様がそれは危険だと思うのも無理はないし、また人の固有性を考えるとき、皆様がおっしゃられる通り、はたして「弱者」を弱者としていいのか?という疑問が生じるのも無理はない。マイノリティの固有の文化を「小さい」と評するのは確かに彼らの固有性を「小さい」と低めた視点で看做すことになりかねないですね・・・しかしミノーリス(小さき)という言葉に込められるのは、自らに問うべきものであるというのはま・ここっとさんの仰る通りではあると思いますし、また、ここでは「ミノーリス」という言葉に込められたフランシスコ会の伝承を見ていかないといけない場面ではあるでしょう。「伝承」が告げるものをはしょってしまって結論を出すのも早計かもとは思っております。
(まぁ、自由主義神学も過ぎると過激だからなぁ・・・。とはいえそれを超えた「信」こそ問われてくる部分でもありますね。それはブルトマンはじめ非神話化していく神学の流れの中でも重要な要点になっていくと思いますけど。結局「信」に回帰していくといいますか)
本当にもしも、本田神父さまに伝わりご理解を頂けたらと思うこと、言葉にすると上手くないかも知れません。だけども、困難を受けいれて、自分の出来ることを考えて、そして世の中とのお付き合いを真剣に考えている障碍者は増えています。
医療やリハビリ技術の発達、介護技術や介護用品の充実で、私たちが自立して出来ることは少しずつ増えています。それでも「障碍者であること」で健常の方々の手をお借りすることはありますし、障碍そのものを何とか出来ないことのほうが多いですが。ここ近年、一般の方々の意識向上もあって、外出の際、随分とお手をお借り出来るようになって、感謝しています。
でもそれを「当たり前だ」と思ったり、「障碍者であること」を逆に利用してしまう人も少なからずいるのです。その時点で自分の傲慢に気付いて反省できればいいのですが、『弱い人だから注意しちゃあいけない』と思っている人や事なかれ主義の人は多いので気付くチャンスが少ない。
そういう人を利用しているのが、「政治団体」や「宗教団体」です。
障碍の程度によっては、自宅での生活が出来ずに育つ方も多いですし、養護学校が寮制でないともたなかったりします。自宅で過ごすにも、家族にかなり負担をかけているのを知っています。だけど、そういう弱みにつけこんで、私達の生活に自分たちの主張を押し付けるのを止めて欲しいんです。
そういう人についていけば、自分の面倒を見てもらえる、と思ってついていく人もいます。それは、個人のことで仕方ないけど、そういう団体に入ればその人の「個」が段々消えていって、その人は「団体のスピーカー」になっちゃいます。それに気付いて離れていこうにも団体側に生活のケアを頼ってしまうから、足抜けできない。
教会だと、神父さまやシスターが「善意で」着手してくださる。だけどお考えとしては「洗礼まで」なんです。あとは教会の仕事だからということで、ほとんどは素人である信徒さんがそれをされることになります。でも、信徒さんにも生活があります。私達としても、職業でしている方の方が頼み易いことが多いです。そういうことですれ違いが積み重なって、教会と切れてしまうことも多いのです。
社会的弱者と言われる側に、興味を持っていただくことは感謝するべきことなのですが、本当に助けようと思ってくださるなら、私達も「成長したい・出来るだけ自立したい存在」でもあることを
忘れないでいただけないか、と切望しています。同じ人間と扱って下さるのであれば、「守る」段階以上のニーズが今はあることをお考え願えましたら、幸いに思っております。