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☆神に仕える身でありながら、カミガミ(紙々)の要らない世界を標榜する人間の一人として、電子メディアに自分の思いを綴ることは大きな喜びです☆本を書かない代わりにここでいろんなことを書いてみたい。
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動く聖書教室

by admin posted at 2009-06-16 23:24 last modified 2009-06-16 23:24
都会の中のオアシス

空港までのバスで久しぶりに北森嘉蔵博士のテープを聴いた。出エジプト14章の紅海渡渉。

イスラエルの人々は壁のようになった水の中を通った。水が海から消えたのではない。これがポイント。この世の現実を外だとすれば神は内なる存在。この外なる現実、この場合は海の水そのものが消されることなしに民の救いが実現した。僕の場合を考えるとありのままの自分がそのままで神の中に包まれていく。更にさまざまな犯罪のニュースが絶えない外の現実にも神様は目くじら立てることもなくなんとか自分の中に取り込もうとされる。だから、ボクの現実も世の罪の現実も裁きの対象ではなく神の救いの対象。つまり、神の愛の対象。それが救い。

だから神の救いの働きの特徴はその人そのものの現実のありようを保ったままでなされること。イスラエルの民が紅海を渡ったというこの箇所がそんな思想の根拠なのだとはじめて知った。そのことを博士はどこかで「嚢中(のうちゅう)の釘」というたとえを使われていたと記憶している。袋の中に一握りの釘を入れると釘は袋を突き刺して袋は傷つき破れてしまう。袋が神だとすれば釘は外の現実。そこに神の痛みという思想が生まれる。博士の著書「神の痛みの神学」は世界的に有名になった。

分かりやすいが、自分も釘の一つだとすればボクは傷つけるだけの存在で僕自身の救いはどうなるのかなと思った。・・・そうだ「痛い思いをさせてゴメンナサイ」と言えばいいのだ。口だけでなく、釘は釘でも頭を外に向けようとすれば袋を痛めないですむことになる。これが回心。しかし、こうすることで何とか袋を痛めないですむがいつまた逆になるかもしれない危うさは残る。これが人間の現実。

結局目的地のカトリック会館に着くまで聞いた。お昼は自室でくるみパンとお茶。2:00、早速土曜日までの長丁場が始まった。明けての今日、昼休み50分ほど散歩。江東区運動公園は会館から十分。テニスコートに多目的グラウンド。よく整備された周囲の遊歩道を二往復しただけで30分もかかった。午後は2:00から6:30までビッシリ。一日があっという間に過ぎた。

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