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時が満ちる

作成者 admin最終変更日時 2006年03月29日 11時50分

ニネベの人々は、ヨナの警告にはじかれたように悔い改めの荒行を始めました。単純な人たちが多かったのでしょうか。

今週の聖書

マルコ1章14-20節

イエスはガリラヤへ行き、神の福音を告げ知らせて、「時は満ち、神の国はすぐそこに来ている。低いみに立って見直し、福音に信頼して歩みを起こせ」と言った。イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いていて、シモンとシモンの兄弟アンデレが投げ網を打っているのを見た。二人は漁師だった。イエスは二人に言った。「私についてきなさい。あなたたちを人間あいての漁師にしよう。」二人はすぐに網を捨てて、イエスについていった。
イエスは、そこから少し行ったところで、ゼベダイのコヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを見た。そして、すぐ二人を呼んだ。二人は、父親のゼベダイを雇い人達と一緒に舟に残して、イエスについていった。

「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に荒布をまとった。(ヨナ3章4-5節)

定められたときは迫っています。今から、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世のことに関わっている人は関わりのないようにすべきです。(コリント前書7章29-31節)

今週のポイントニネベの人々は、ヨナの警告にはじかれたように悔い改めの荒行を始めました。単純な人たちが多かったのでしょうか。

パウロは難しい要求をします。幸せな家庭生活に水を差し、泣き悲しんでいる人は思わず「えっ!」と絶句してしまいそうです。喜びさんざめく若者達が「変なおじさん」と冷笑しそうです。大売り出しに繰り出しているおばさま達からいやーな目で睨まれそうです。多忙を極めている人々からは「ヒマな人はいいよなー」と言われてしまいそうです。
パウロの本心を計りかねますが、いずれにしても、「時を失(しっ)した」と悔やんだことは何度もあります。「気づくのが遅すぎた」、「あのときこうしておけば…」、「あの一言さえなかったら…」、「気にはなっていたのですが…」いくらでも出てきそうです。

光陰矢のごとし。時はあっという間に過ぎ去るもの。時に対する理解は共通しています。しかし、少なくとも、前にあげた聖書は「時は満ちるもの」という理解をしているようです。「時を無駄に過ごした」という悔いを残すようなことがあるとしても、それも、私の独特な人生を築き上げるための私なりの一つのプログラムだったとすれば、時への理解は大きく変わります。「私という独自の人生が満ちていくための時」でない時はないと言えるなら、悔いることはないと断言できそうです。失った時を取り戻せるからです。失ったと思った時に命を吹き込むことが出来るからです。

神の国という大きな時の流れが、ヒタヒタと静かに、しかし、確実に、失われた私の多くの時を丁寧に拾い集め、巻き込みながらうねりとなって満ちていく。イエスの時理解。


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