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たとえかわやに捨てられても

作成者 admin最終変更日時 2006年03月29日 11時50分

今週の聖書

マルコによる福音14,12-13 22-24

除酵祭の第1日、すなわち過ぎ越の子羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過ぎ越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。(略)弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過ぎ越の食事を準備した。一同が食事をしているとき、イエスはパンをとり、賛美の祈りを唱えてそれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これは私の体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らはみなその杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは多くの人のために流される私の血、契約の血である。」

今週のポイント「これは私の体。」キリストの聖体。この上なく尊く、手にするのも畏れ多く、聖別された司祭のとおとい手で口に入れてもらうべきもの。そんな思いを未だにしっかり保っている人々がいるほど「ご聖体」は「取り扱い注意」なのだ。

ご聖体は、ある意味で、イエスの形見。形見は大事にすべきもの。粗末にしてはならない。なぜなら、残した人の思い出がいっぱい詰まったものだから。時々取り出して披露したり、思い出にふけったりするもの。しかし、ご聖体は、そんな意味での形見とは少し違う。

いずれにしろ、食べ物を形見にしたいというイエスの思いつきには、貧しい弟子たちへの最高の心遣いが込められていたと言えよう。

まず、イエスは彼らを含めた五千人もの空腹を満たした(マルコ6,30以下)ことがあるということで、「パンとなって彼らを養う」ことを伝えるのに、「パンに託する」ことは分かりやすい。今後、彼らは、パンを裂くたびに、イエスの思いを思い、イエスとの友情を深めていくことになるだろう。パンが身体を養う食べ物から、弟子の心を養い育てる糧となった。

次に、自分の形見として「食べ物」を残す人はあるまい。腐る前に、口にし、お腹に入り、やがてかわやに捨てられていく食べ物。形見としてふさわしいとは言い難い。しかし、「十字架にの死に至るまでご自分を無とされた」(フィリッピ2,8)イエスが、それでもまだ足りないかのように、「かわやに捨てられるまでご自分を無とされた」ことに驚く。そして、ここに越えがたい深刻さがある

イエスは、ガリラヤ湖の西海岸を北上してカファルナウムに向かう道々、弟子たちが、「誰がいちばん偉いかと議論していた」(マルコ9,34)ことを忘れてはいなかった。そんな弟子たちにどうしても学んで欲しいことがあった。「かわやに捨てられるまで自分を無とする」こと。若さや力を誇り、知識と実績を鼻にかけるなら、内部分裂は目に見えている。パンを裂くたびに、無となることを学ぶ。それが弟子たちへの大きな期待だった。そして、その期待は今も変わらない。「たとえかわやに捨てられても」弟子であり続けるように。

だが、私の現実はまるで逆。自分らしさ。楽しさ。手応え。私の大切な価値観だ。もし突然不治の病に倒れたら、こうしたものはいっぺんに吹き飛んでしまいそうな感じもする。そして、無になる体験が出来そうな感じもする。しかし、無となることがそういうことなら、イエスはずいぶん意地悪な感じもする。

教会は、パンに込められた「無となるように」というイエスの遺言をどれだけ踏みにじってきたことか。教会の歴史をひもとくと、深刻さは怒りに変わってしまう。今の自分が相当立派に見えるほどだが、教会も世の力に翻弄された迷える子羊の群であることが分かる。

で、私たちは、イエスほど無にはなれない。せいぜい、ねたまず、恨まず、誇らず。それが出来たら立派なものだ。それもできなかったらどうするか。その時こそ、「かわやに捨てられるまでご自分を無とされた」イエスに戻ればいい。しかし、これもまた忘れがちなのでややこしくなるのだが、何とかそんなイエスのところに戻れたら、えも言われぬ力が沸くこと請け合いだ。ここに信仰の神秘がある。そして、あなたの復活も約束される。試す価値があるゾ。


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