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目から鱗パートⅡ

作成者 admin最終変更日時 2006年03月29日 11時50分

今週の聖書

使徒パウロのコリントの教会への手紙 (2コリント12.7-10)

皆さん、私が思い上がることのないようにと、私の身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、私を痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせて下さるように、私は三度主に願いました。すると主は、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ発揮されるのだ」と言われました。だからキリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、私は弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、私は弱いときにこそ強いからです。

今週のポイントいざ、鎌倉ならぬイザ、ダマスコ。エルサレムの北300キロ。キリスト支持者への殺意に満ちてダマスコ街道をひた走るサウロの行く手を主が遮った。

ピカーッ!突然目先がくらんだかと思うと、「何故私を迫害するのか。」地の底からわき上がるようなうめきにも似た主の声。

「何者だ。」驚天動地。腰を抜かしてしりもちをつき、うろたえながら叫んだ。

「あなたが迫害しているイエスだ。起きて町に行け。なすべきことが知らされる。」
弱々しくもあらがいがたい主の言葉にサウロは何故か身震いした。

混乱した頭を振り振りやっと立ち上がったサウロは目が見えないことに気づくや、驚がくの二乗、叫ぶ力も沸かぬほどに混乱は極に達し、無抵抗のまま手を引かれる有様だった。(中略)

三日の後、青菜に塩のサウロをアナニアが訪れた。「兄弟サウロ。イエスが私を遣わした。あなたが見えるように、聖霊を受けるように、と。すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。」
(使徒言行録9,1-18)
サウロ、つまりパウロ改心の顛末。これが、目から鱗パートⅠ。

前置きが長くなったが、目から鱗パートⅡが今日のパウロの話。
改心後のパウロの働きはまさに獅子奮迅、猪突猛進。川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難などなど、数え上げたらきりがない。雨がふろうが槍が降ろうが、パウロのばく進を留めるものはこの世になかった。そんなパウロにも一つだけ弱みがあった。ある日、突然、激しい痛みと共に体がこわばり動けなくなるのだ。周期的に彼を襲う「青菜に塩」の病魔。さすがのパウロも神様に悲鳴を上げた。だが聞いてはもらえなかった。三度も祈ったのに。たった三回?三は三ではない。サンザン祈ったのに…と言いたいのだ。サンザン祈ったあげく、神がどうして青菜に塩を解消して下さらないのかが分かったのだ。
「思い上がらないように。」
なるほど見えてきた。たとえばコリント宣教。名うての不道徳な町。どこから手を着けようかと悩んでいたとき、たまたまテント張りの同業者に巡り会えたことで一年半も活動できたこと。神様はその時その場で必要な人を用意して下さっていたのだ。それこそ、数え上げたらきりがない。
そうだったのか!こういっちゃ何だが、神様が先手先手で、僕は、その手に乗っていただけだったとは!その手こそ恵み!神の恵みに脱帽!この持病さえなければもっといい働きができると思っていたのに!それが思い上がりだったとは!目から鱗パートⅡ。
で、持病が何だ!

ところで、私たちの場合、自分の弱さを見せつけられては青菜に塩のくり返し。そのたんびに開き直り。ま、いいか。仕方ない。これが自分なんだから。何とか間に合う対処療法。悪くない。だが、許しの秘蹟の域を出るものではない。告解を何十回したことか。回数に比例して神の愛の深さと広さに迫れたか。答えはノーだ。自分を卑しめ続ける信者が後を絶たないのは何故か。そもそも、自己批判から信仰を始めたところに我らが宗教の失敗があった!

その点、パウロの開き直りは完成の域にある。もしあなたが、パウロの境地を体感したら、あなたの信仰がひっくり返り、正常化するに違いない。そして言うだろう。「信仰て楽なモンです!」目から鱗?


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