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私の終末

作成者 admin最終変更日時 2006年03月29日 11時27分

今週の聖書

ルカによる福音ルカ21,25-28、34-36

太陽と月と星に徴(しるし)が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、職の民はなすすべを知らず不安に陥る。人々は、子の世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。その時、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗ってくるのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなた方の開放のときが近いからだ。
放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなた方を襲うことになる。その日は、地の表のあらゆるところに住む人々全てに襲い掛かるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれら全てのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。

今週のポイント終末の説教。実感はない。終末、と聞いただけでは週末のことかと思う。世の終わり、と言われても同じく実感はない。敢えて言えば、「私の終末、私の世の終わり」はある。それも、私が死んで世を去るときではなく、何かに、「揺り動かされる」ことによって起こる終末。

私の確信が壊されるとき。期待が裏切られるとき。評価されないとき。誤解されたとき。拒否されたとき。思うようにことが運ばないとき。などなど…。

そんなことが「起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。」(28節)身を起こす。精神を高める。心を強くする。だが、現実には、腹をたて、失望し、恨みつらみ…。身の置き所に困る。たとえ、現実がどうだろうと、「解放の時が近い。」(28節)弁解じみた反論に場を与えないイエス。

考えてみると、僕の解放が実現したのは、確かに、このようなことが起こったときだった!たとえ、そのいくつかが、傷となって残ったとしても、その傷の癒しによって起こった解放。

忘れもしない、高校二年の冬、鹿児島航路の待合室。着ていた古いコートのほころびに気がついて、僕は恥ずかしくなり、人に気付かれまいと必死に手で覆っている不自然な姿を父は見逃さなかった。「男らしくない。」無言で抵抗する僕を父はわざとらしく声高(こわだか)に譴責(けんせき)。顔を上げられず、こみ上げる父への怒りをじっとかみ殺すしかできない悔しさ。「人前で、しかもセーラー服の女の子の前で、恥をかかせた父」を36歳になるまで赦せなかった。

そんな、青春の苦い思い出も含めて、日常の終末、いや、まさに終末にあるガンの末期の人々の場合にしろ、どんな痛みも、解放への道であることは疑いのないことらしい。それには、条件がある?「目を覚まして祈りなさい。」(36節)覚は「各種の刺激が一点に交叉して統合される働き」なのだという。分かり易く言えば、「しかし、マリアは、これらの出来事を全て心に納めて、思い巡らしていた」(ルカ2,19)ということか。

今日から待降節。「主はわれらの救い」(エレミヤの預言33,16ー第一朗読)を確信できる日々であるよう祈ります。


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