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異文化人イエスとの対話に向けて

作成者 admin最終変更日時 2006年03月29日 13時28分

今週の聖書

ルカによる福音2.16-19

そのとき、羊飼いたちは急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を捜し当てた。その光景を見て、彼らはこの幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いたものは皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事の全てを心に納めて、思い巡らしていた。

今週のポイント祝 新世紀の到来

2001年は国連文明間対話の年。文明と文化はどう違うか。文化は、「文明とほぼ同義に用いられることが多いが、人間の精神生活に関わるものを文化と呼び、技術的発展のニュアンスが強い文明と区別する。」広辞苑の説明。英語では、文化をculture,文明はcivilization。多分、違うのだろうが、細かなことはともかくとして、ほぼ同義ということで…。

人や情報の世界的広がりが急速に進んだので、こういうテーマを設けたと思う。ここ奄美でも、欧米人と思われる人を良く見かけるが、ボク個人としては、そういう対話の重要度というか、緊急さを毎日実感しているわけではない。

冬の奄美深山で咲くさくらつつじ
2001年元旦撮影

むしろ実感しているのは、イエスが
異文化人であるということと、そのイエスを紹介する聖書は、これまた異文化の産物であるということ。従って、そんな異人としてのイエスとの対話は深まっているのかいないのか測りがたい。もっとも、イエスとは個人的には親しい友達づきい合いをしてはいるが、時々不可解な発言に面食らうことがある。友達であることに免じて多めに見ていける場合もあるし、何度か聞きなおしたり考えたりすることで収まることもある。しかし、彼が教えた父である神の思いは余りにも深遠で、図りがたく、そして腹が立つことが多い。

ついでに言うなら、イスラエルとパレスチナの対話が進展しない大きな理由は神自身に責任があるのではないか。パレスチナもイスラエルもアブラハムの子孫。「あなたの子孫にこのと地を与える。」(創世記12,7)アブラハムへの神の約束。「…乳と蜜の流れる土地へ導き上ろうと決心した。」モーセに対する神の告白。で、両者の言い分はイーブン(even)。で、喧嘩させているのは神、ということになりはしないか?神との対話がギクシャクするワケ!

で、神との対話の重要さは認めるものの、異文化人の次元を超えることなので、なぞはなぞのまま残しておかざるを得ない点ストレスはたまるが、とりあえず、イエスとの対話を今年も深めていきたいと思う。

もう一つ、きわめて、現実的かつ緊急度の高い対話として個人間の対話があるのだが…。これも、一筋縄でいかない点、厄介。各個人は違う家庭環境で育っている。各自の家庭環境というのは、各自、違う家庭の文化背景をもっているということ。こんなにも同じ言葉を話しているのに、こんなにも意思の疎通がスムーズでないのはどうしてか。文化が違うから。分かりやすく言えば、育ち方が違ったから。その独自の文化は第三者が勝手に踏み込むことを赦さない無意識の砦。で、「分からない人は分からない」、いや、「分かり合えないものは分かり合えない」と、ほとんど信じるようになった。その人のせいでもないので、騒がず、叫ばず、苛立たず。神にお返しする。気が楽。つまり、カッコにくくって一時保管。

「マリアはこれらの出来事を全て心に納めて思い巡らしていた。」

深遠な神の思いが現れるまで、騒がず、叫ばず、苛立たずに待つ神の母マリアの対話の極意。

マリアを通して異文化人イエスがかけがえのない親友となるよう祈りつつ。


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