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敵は本能寺にあり

作成者 admin最終変更日時 2006年03月29日 14時21分

今週の聖書

使徒パウロのテモテへの手紙(2テモテ1,6-8,13-14)

愛する者よ、
私が手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜を
再び燃え立たせるように勧めます。
神は臆病の霊ではなく、
力と愛と思慮分別の霊を私たちに下さったのです。
だから私たちの主を証しすることも
私が主の囚人であることを恥じてはなりません。
むしろ神の力に支えられて
福音のために私と共に苦しみを忍んでください。
キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、
私から聞いた健全な言葉を手本としなさい。
あなたに委ねられている良いものを
私たちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。

今週のポイントアメリカの強引な武力によるテロ撲滅という名の戦争に反対する気持ちは
今も変わらないが、
自分が向けている反対の矛先が、実は自分自身だったことに気がついた時は
思わずアッと叫んでしまった。

もしもあなたの近くに、不利益を被らせると思われている誰かがいるとする。
あなた個人への不利益というよりあなたが属する共同体全体
に関わる問題として。
あなたは、出来るだけその人と関わり合いになることを避け、
不利益を被ることのないよう慎重に振る舞い、無難な付き合いを心がけるだろう。

しかし、もし、あなたがたまたま近くに居合わせただけの理由で、
その人が抱えている周囲との問題を避けて通れないという
のっぴきならぬ状態になったとしたらあなたはどうすると思うか。
この場合のあなたは、「信者」ということにしよう。

あなたは、きっと苦悩し、身の不運を嘆き、人々にも相談し、
だが何とか祈りながら
出来るだけ福音の教えに沿った良策を講じようとするに違いない。

ところが、ボクの中にあった思いは
「周りが嫌がっているんだったら自ら身を引けばいい。
自分の立場や権利ばかり主張するしつこい人のようだから、
そんな人と関わり合いになるのはまっぴらご免。
バックにどんな人がついているのか…」などなど。
その人の本当の問題を知ろうともしないで、
耳に入る評価だけでその人についての偏見をふくらませていた。

「力と愛と思慮分別の霊」こそ私に「与えられている神の賜」。
それを「再び燃え立たせるように。」
飛び上がるほどビックリし、かつうろたえた。
サテモ、敵は本能寺にあり、か。

ことその人のことに関しては「愛」はおろか、「思慮分別の霊」
のこれっぽちも持ち合わせてはいなかったことに気がついたからだ。
「与えられている賜」を全く顧みてはいなかったのだ。
自分に不利益が及ばないように、という「恐れの霊」に取り付かれて
おびえていた自分があぶり出された。

「信仰と愛」
福音に基づいた「健全な言葉」
わたしに「委ねられている良いもの」
今日は第一土曜日で「リサイクルゴミ」回収日。
すんでの事で「その他のゴミ」に捨てるところだった。
その日になったら、彼女(オッと言ってしまった)を暖かく迎えたい気持ちになった。
乞熱烈祈願!

「アメリカにもの申す」資格などない自分を恥じつつ
皆様がそんな深刻な問題に巻き込まれることのないよう祈ります。


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