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イエスの道連れに

作成者 admin最終変更日時 2006年03月29日 14時31分

今週の聖書

ルカによる福音21.5-19

ある人達が、神殿が見事な奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。
「あなたがたは、これらのものに見とれているが、
一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」
そこで彼らはイエスに尋ねた。
「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。
また、そのことが起こる時には、どんな徴があるのですか。」
イエスは言われた。
「惑わされないように気を付けなさい。(略)戦争とか暴動のことを聞いても…。(略)」
そして更に言われた。
「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。(略)そして、大きな地震があり、
(略)。しかし、これらのことが全て起こる前に、人々はあなた方に手を下して迫害し、
会堂や牢に引き渡し、(絡)。それはあなた方にとって証をする機会となる。
だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。
どんな反対者でも、対抗も反論も出来ないような言葉と知恵を私があなた方に授けるからである。
(略)忍耐によってあなた方は、命を勝ち取りなさい。」

今週のポイントこれでもか、これでもかと天変地異、不幸、災難が語られる。
さもあらん。実は、この後間もなく、イエスの身辺は殺気立ってくることになる。
イエスの逮捕、殺害が差し迫っていることは、
他の誰よりも、イエス自身が身にしみて感じていたに違いない。

たかが、見事な建造物を愛(め)でたぐらいで、かくも鬼気迫る脅しの演説をするイエスの暗さ。
そんな批判が当たらない理由は上記による。
冷やかし半分で質問した人々が、次第に真顔になり、やがて狼狽するさまが目に浮かぶようだ。
イエスの深刻さに次第に引き込まれていく人々。

戦争、暴動と聞けば、アフガニスタンのことを思うかも知れないし、
立派な神殿ががれきと化すと聞けば
世界貿易センタービルの崩壊を連想するかも知れない。
しかし、だからと言って、
イエスの深刻さに引き込まれるわけではない。いつもの問題なのだが…。

それでも何とかイエスの深刻さに迫れないかと、鍵となる言葉を探してみると…。
「証をする機会」
「忍耐」

あの時代と、そして、紛争に巻き込まれている今の時代の人々と
私がいる状況は似ても似つかないものであったとしても
この二つの言葉は、間違いなく私に突きつけられている、と実感せざるを得ない。
そして、証をする機会を生かすも殺すも忍耐次第とも感じる。
もう少し親身に聞けば良かった。
もう少し待てば良かった。
もう少し見守ってあげこと。
もっと一緒に感じようとすること。
などなど。全て忍がなかったばかりに、後悔すること、後で気づくことは多い。

ここで使われている忍耐のギリシャ語は「重荷の元に留まる」意味だという。
重荷が「投げ出したくなるもの」だとすれば、
聖書の本文にあるようなことばかりとは限らない。
人間関係、頼まれたこと、すべきこと、趣味でさえも。大小問わず沢山ある。

それら全てが、「証をする機会」とは限らないが、
分かりにくい神さま、難解な聖書の教え、自身がないままの信仰。
所属する教会の諸問題。
おまけに、面白くない説教?とくれば、ことは少し深刻になる。

そんな不透明な中に留まり続ける「忍耐」があったればこそ
たとえ頼りなくても、弱々しくても、イエスにこだわって離れずに来れた。
それこそが、イエスへの私の信者としての、司祭としての身の証なのだ。

で、証は人前でするものと思うとつらい。その前に、イエスに密かにするもの。
その堅固さなしに、人前での証はがれきと化すだろう。
殺気立つ身辺に心細さを感じながら
イエスは父である神に身の証を立てるべく身を引き締めているのだ。
あなたもその道連れに呼ばれている。


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