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魔法の門

作成者 admin最終変更日時 2006年03月29日 15時39分

今週の聖書

ヨハネによる福音10,9-10

2002.4.20記

私は門である。私を通って入るものは救われる。
その人は、出入りして牧草を見つける
盗人が来るのは、
盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするために他ならない。
私が来たのは、羊が命を受けるため、
しかも豊かに受けるためである。

今週のポイントこの不可解さを何とか解明できないものかといつも思う。

司教司祭の対立。意見の違いは当然としても
殆どの場合、感情的なレベルで残るしこり。
指導のもとの一方的押しつけ。信念なのか信仰なのか。
牧者といいながら、愛のムチを振るっているのか、
単に腹だたしいだけなのか。愛の無知なのか。
などなど。

同じ構図が司祭信徒間にも。
信徒は…
本気で謙虚なのか、単なる劣等感なのか。
本気で司祭を尊敬しているのか、単に怖くて黙っているのか。
本気で司祭を認めてくれているのか、単に諦めているだけなのか。
本当の分かち合いなのか、単なるうわさ話なのか。
などなど。
司祭は…
本当に権威をもっているのか、単に威張っているだけなのか。
本当に信仰があるのか、単に多くを知っているだけなのか。
神の恵みを信じているのか、単に自信があるだけなのか。
本当の牧者なのか、単なるやり手なのか。
本当に祈っているのか、単に熟慮しているだけなのか。
などなど。

イエスの門と自分の門を対比するとこのようになる。

はっきりしていることは、洗礼によってイエスの門をくぐった時
たくさんの自分の門を廃棄しないまま通過してしまった。
自分の門は、そもそも廃棄できるようなものではなく、
イエスの門を通過する時、うまく姿を隠すことができる。
悲劇は、自分の門がそんな芸当の出来る魔法の門であることに
気づきにくいというところにある。

ご聖体だ、祈りだ、恵みだと豊かな牧草にありついているのに、
どうも贅肉ばかりが目について困るというその本当の原因は
イエスの門なのか自分の門なのかの区別がつかないほどに
自分だけを肥やしたがる自分の門がうまくイエスの門になりすましているからだ。

黙想会などという手もあるが、時間と費用がかかる割には、
持続的効果はそれほど期待できない。
とくに、司教、司祭、修道者という信者には、権威や立場という
ウイルスに感染している場合が多く、しかも
多用しすぎたため免疫がついてしまって難しい。

そういう大げさな手を使わなくても
自分の門のからくりに気がつきさえすれば大幅な改善が見込まれる。
あなたが、自分の信仰の体質改善を計りたいと望むなら、
この自分の門のトリックを見破らなければならない。
そうしたら、あなたはもう、カ、トリック信者だ。


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