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栄光の座が問題

by admin last modified 2006-03-30 11:03

今週の聖書

マタイによる福音25,31-46

2002.11.24記

人の子は栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。「さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、私が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」
(略)
そこで、王は答える。「はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたことは私にしてくれたことなのである。」
 それから、王は左側にいる人たちにも言う。「呪われたものども、私から離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは私が飢えていたときに食べさせず、…(略)

今週のポイントこの話の鍵となる言葉は青色の部分。

よく言われるように、
最後の審判ではどんな愛の業をなしたかだけが聞かれる
と理解している人は多いと思う。そうかもしれない。
だが、
今日の話しには、極めて限定された行為しか述べられていない。
文字通りに理解するなら、普段の生活で普通に遭遇することでもない。
それは屁理屈であって、ここで言わんとしていることは、
身近な人々と愛を持って関わりなさいということだ。
しかし、私たちは、そういう指示を受けるまでもなく
信者であってもなくても、
お互いに善意で、気持ちのいい人間関係を築こうとしている。
誤解やすれ違いや、ねたみやひがみや、意地悪な心や…
そんなものから無縁ではないとしても…。

こんなにも複雑な日常茶飯事を生きている人間どもを
王であるキリストととて
右と左に分けて、公平に裁けるものか、疑わしい。
第一、右は100%善人で、左は100%悪人。
そんな不自然な住み分けなど出来るわけがない。

またケチが長くなったが…。
だから、この話を単に脅かしのように理解するのではなく
自分が、もっと信者らしく生きるために自分を見直し
歩みを正すために読むのでなければ意味がないワケ。

で、鍵となる言葉に戻ると、
キリストは、すでに栄光の座に着いていることを忘れているのが問題。
だから、私たちは、自分の栄光の座から降りようとしない。
王であるキリストにとってそれが一番の屈辱。
信者の名をかたりながら問題を起こす原因の一つがこれ。
各自の栄光の座をせめてキリストの座の下に置く心遣いがあるなら
信者たち(信徒でないことに注意)の人間関係が
どれほど改善されることか。

そのことにはっきり気づくときが来る。
それを回心とも言うが、
回心とは、自分の栄光の座が、キリストの座の上になっていたことに
はっきりと気づくこと。
とりあえず
ねたまず、恨まず、自慢せず、ひがまず、嫌みを言わず、…
その根の深さに気づけば、意外と楽に生きられる。
来週から待降節。


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