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イエスの四旬節

作成者 admin最終変更日時 2006年03月29日 15時19分

今週の聖書

マタイによる福音マタイ4,1-11

2002.2.16記

イエスは、悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた。そして、四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせていった。「神の子なら飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてあると言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世の全ての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝みただ主に仕えよ」と書いてある。』そこで悪魔は離れ去った。すると天使達が来てイエスに仕えた。

今週のポイント突然ですが、信仰入門で40日40夜キリスト様が、悪魔に誘惑されたとこで、行かなくてもいいのにいったのは、密教や、仏教で、行をして、霊性を高めるそうですが、あえて、キリスト様も、これからおこる十字架までを乗り越えるため、
荒行へいったのでしょうか、....?

探求心旺盛なエツロウ君でなくても、こんな質問をしたくなるのではないか。
確かに
肝試しでもあるまいに、イエスは何故、わざわざ荒れ野に行ったのか。

「霊に導かれて…」とあるので、
何かこう、止むに止まれぬ思いで…ということなのか。
そうでなくても
新しい始まりに際して、人は特別のことをしたくなるものだ。
卒業祝い、就職祝い、新年会、誕生会などなど。
セレモニーの数々。枚挙にいとまがない。

しかし、イエスの始まりは全く孤独の内になされたことに注目しなければならない。
実は、イエスのこの不思議な行動はすでに予定されていることでもあったのだ。

「イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった」(ルカ3:23 )
とあるので、それまではナザレでヨセフと同じ石切大工で
生計を立てていたと思われる。
働き者の青年イエスの心にあったのは、仕事のことではなかった。
12歳の時の神殿でのあの体験だったのだ。
「…わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを知らなかったのですか。」
(ルカ2:49 )
「父の家にいる、父の家にいる…」
かつて、母に発した言葉がいつまでもこだまし、問いかけ続けるのだった。
そして、仕事に疲れた体を休めながら祈る時間を惜しまなかった。
祈りの中で幾度となく心を突き動かされたのは
自分が、先祖達の罪の歴史の流れのただ中にいるという事実だった。

長い沈黙を破り、悠久の歴史と形骸化した宗教社会に挑む時が来た。
自分の召命への確信を得たイエスの旅立ち。
孤独の祈りと先祖がたどった荒れ野。
新しい始まりにおけるイエスの孤独なセレモニー。
それは荒れ野でなければならなかったのだ。

エジプトを脱出した先祖。家を出た自分。
その前途に拡がる荒れ野。
まさにイエスの四旬節が始まった。


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