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味わって食べる

作成者 admin最終変更日時 2006年03月29日 22時57分

今週の聖書

ヨハネによる福音6,51-58

2002.6.2記

私は天から降ってきた生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。私が与えるパンとは、世を生かすための私の肉のことである。

それでユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることが出来るのか」と互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなた達のうちに命はない。私の肉を食べ、私の血を飲むものは永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。私の肉は真の食べ物、私の血は真の飲み物だからである。

私の肉を食べ、私の血を飲むものは、いつも私の内におり、私もまたその人の内にいる。生きておられる父が私をお遣わしになり、また私が父によって生きるように私を食べるものも私によって生きる。

今週のポイント子供たちと一緒にお昼を食べている。好き嫌いをする子供は多い。
「嫌いなものでも、何回も噛んでいると甘~く美味しくなるんだから…」
とかなんとか言って何でも食べるように勧めることがよくある。
中には、「そんなに好き嫌いしたらウルトラマンにはなれない」と
キョウハクされてガツガツと勇敢に食べ出す子もいる。
それでもたっちゃんはこれまで食べた分も全部吐き出して、
恨めしそうにボクをにらんだ。
子供に味わって食べるのを分かって貰うのは難しい。

味わって食べると言えば、今日の本題、ご聖体の場合も同じ。
あなたがカトリック信者で、しかもよく聖体拝領する人ならよく考えて欲しい。
そうでない人も、門外漢の人もそれなりに考えてくれると嬉しい。

およそ料理というものは味わって食べるものだ。
あなたがもてなしを受けた場合はなおさらだ。
特に主婦が多いとたちまちレシピーの交換会になったりする。
いずれにしろ、もてなしてくれる人の気持ちを存分に味わえたなら
ありがたくて、嬉しくて感謝の気持ちは倍増する。

当初、弟子たちが行っていたミサでは
未だ脳裏に焼き付いていた
主の受難とその後の復活、昇天、そして聖霊降臨といった
一連の出来事を思い起こしながら
イエスがどんな思いで彼らと三年間を過ごされたのか
深く深く味わっていたに違いない。
そして、いわば形見としてのパンを押し頂いたに違いない。

しかし、時がたつにつれ、イエスへの思いは消え、ご聖体が一人歩き始めた。
ある時代、聖体拝領マラソンみたいなことが流行り
じっくり味わうどころか一日の拝領回数を競う人々もいたという。
ついに教会は、「聖体拝領は一日一回」を宣言しなければならなくなった。

今日、回数は原則一回になっても拝領マラソンとどれほどの違いがあるのだろうか。
毎日の生活でキリストの気持ちをどの程度味わっているか問われている。
人の真意が分からず困惑し、腹を立て、
人の過ちを厳しく咎め、
人の回心ばかりを願い…。
みんな正しいことだったとしても、
「ワシはそれこそ死ぬほど辛い目にあったが歯を食いしばって頑張った」
イエスの気持ちをどれほど味わったか問われているのだ。

ともあれ
あの薄っぺらな一枚の小さなご聖体に込められたキリストの思いは
受け取るにはあまりにも重たくて、
今日もあえぎながら走る聖体拝領マラソンランナーの一人で何が悪い。

励まされて口にした給食を吐き出したたっちゃんの顔がボクの顔に変わった。


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