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癒しあう集団になって欲しい

作成者 admin最終変更日時 2006年03月30日 10時45分

今週の聖書

マタイによる福音18,15-20

2002.9.5記

兄弟があなたに対して罪を犯したら、行って二人だけのところで忠告しなさい。(略)教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人のように見なしなさい。
はっきり言っておく、あなた方が地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなた方のうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、私の天の父はそれを叶えてくださる。二人または三人が私の名によって集まるところに、私もその中にいるのである。

今週のポイント「こうして、教会は、罪を赦す権能を授けられた。」
未だにそう思っている人は多いと思う。
もちろん間違っていないが、そう思い続けるのは教会当局側や
その道の専門家だけでいい。

あなたが、普通の人なら、彼らのまねをしてはいけない。
この箇所を、そのように理解すると教会はどうなるか。

「私は、教会で活動するよりも、地域の婦人会の方が楽しい。」
神父様の顔色をうかがい、みんないい子ぶっていて、
後ろでは足の引っ張り合い。

ということか。

「信者、信者言うな。うちの病院では信者が一番嫌われている!」
勤務医だった頃の兄の怒声を忘れない。

一年一回、教会権威の元ですべてをチャラにする方策は教えても
イエスの夢を語って聞かせる権威者がどれほどいるか。
そのことが
いかに由々しいことであるかに気づいている当局者がどれだけいるか。

間違ってはいけない。聖書は、教えに使われる道具であってはならない。
聖書の勉強があなたに知的満足を与えるからといって
あなたがその分思いやりのある人間になれるとは限らないのだ。
そんな実りをもたらさない勉強は教会の不幸。
いや、イエスが未だに手放しで喜べない不幸。

つい、誰かに腹をたてている自分だが…。
ところで、今日の箇所も福音。イエスの励まし。イエスの心遣い。
イエスの夢を共有して欲しいというお願いの演説なのだ。

そうかな。
手に負えない人がいたら、
「異邦人か徴税人のように見なしなさい。」
元気な頃の?ユダヤ人イエスなら、文字通り、「あんな奴らほっとけ」
で済ましたかもしれないが、
今は違う。「彼らも自分の十字架のあがないの対象だった。」
今は、彼の優しさだけがすべてを覆っている。

仲違い、誤解、様々な確執、そして意地の張り合いなどなど。
しばしば、みんな善意で一生懸命なのに招く教会内の不幸。
イエスはそんな数多くの善意のツバを受けながら
誰かのように腹を立てたりはしない。
辛いかもしれないが、私に免じて、私が一緒にいてあげるから
何とか許し合い、認め合い、そして癒しあうものになって欲しい。
そう懇願し続けるイエスの痛みを実感できない不幸。
そんな誰をも敵としないイエスの思いに共感する同志。
それが教会。それがあなた。

あなたがカトリック信者なら、
許しの秘蹟は、あなたの罪は赦しても、
あなたに和解の方策を教えはしない事を忘れてはいけない。
いや一つだけある。
「あなたは赦されたのだから、あなたも赦しなさい。」
その方策を十字架の前で探そうとしないなら
決定的な飛躍は望めないことも心にとめておこう。
なぜなら、十字架こそイエスの決定的瞬間だったから。
そして、そこから逃げ出さなかったからだ。
イエスとの共存共栄。それが教会。それが信者。

十字架のイエスがあなたにだけ語る秘密の方策がきっと聞けるはずだ。


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