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平和の君は十字架に

作成者 admin最終変更日時 2006年03月30日 11時13分

今週の聖書

ルカ2.16-20

2002.12.31記

その時羊飼い達は、急いで行って、マリアとヨセフ、
また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を捜し当てた。
その光景を見て、彼らは、この幼子について
天使が話してくれたことを人々に知らせた。
聞いた者は皆、羊飼い達の話を不思議に思った。
しかし、マリアは、これらの出来事を全て心に納めて
思い巡らしていた。
羊飼い達は、見聞きしたことがすべて天使の話した通りだったので
神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

今週のポイント「あ、ここだ。ここだ。」
「ホントだ、天使が言った通りだ。」
「へ~!驚いたね。こんな所に赤ん坊がね~。」
予期しない、しかも粗野な羊飼い達の突然の訪問にマリアとヨセフは
どんな言葉を返したのか想像も出来ないが、
目を見張りながらも、丁重に歓迎したに違いない。

単純に喜び、さんざめく羊飼い達と
戸惑いながらも十ヶ月前の大天使のお告げや夢のことなど
一連の出来事に思いをはせている二人。
ざわめきと手放しで喜べない不思議な静けさに包まれた平和の君。

最初のキリスト者マリアとヨセフのこの醒めた静けさ。
醒めた静けさというと、物事を斜に構えてみる皮肉屋の感じもするが、
そうではなくて、起こっていることの向こうに目をやると言う意味で…。
それこそが、キリスト者の姿なのではないのか。

ヨハネパウロ二世の新年のメッセージは
明らかにテロとそれを殲滅しようとするアメリカを意識した内容だ。
大騒ぎする、アメリカに理解を示しながらも
メッセージの根幹をなすのは「ゆるし」であることに注目したい。
そして、「宗教に出来る奉仕はまさにゆるしを教えることに尽きる」と断言している。
犠牲者を「少々はやむを得ない」と言って、
ざわめきどころかアフガンの山々を破壊し尽くさんばかりのアメリカの激怒。
諄々と諭すかのような教皇のメッセージが心に浸みた。
醒めた静けさと言うより、
むしろ反目し、殺し合いを続ける神の子らに苦悩を深めながら
「父よ彼らをお許し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」
と祈った十字架のイエスを指し示す父親の静けさ。
「平和の君はここにおられる…」と。

そうは言っても、
ま、少々のことはお互い大目に見て許し合いながら生きている。
だからといって、誰彼の別なく本心でものを言っているかというとそうではない。
そこが、生身の人間の妙味といったところだが、
それでも収まりきれない時があるからしんどい。
テロもさることながら、
「えひめ丸に何の落ち度があったのか。あの事故が許せない。」
家族の叫びは当然だ。
しかしそんな時でも、キリスト者には奥の手があるのだ。

「これらの出来事を心に納めて思い巡らしていた」マリアの静けさ。
それなしに赦しの力は湧かない。

注:教皇のメッセージは下記のホームページで読める。
http://www.cwjpn.com/


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