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呻きは祈りだった!

作成者 admin最終変更日時 2006年03月31日 10時35分

年間第15主日のミサ説教音声(2005.7.10)

音声を聞くためにはReal Playerが必要です。無料でダウンロードして使うことが出来ます。 

 今週の聖書

ロマ8:18-23

 現在の苦しみは、わたしたちに現わされるはずの栄光と比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。

(日本聖書協会『聖書 新共同訳』 より)

今週のポイントうめく、呻吟(しんぎん)する。通常口にする言葉ではないが、悲痛な叫びを連想することは出来る。押し殺したような重苦しさを感じることも出来る。そして、呻くような・・・となると何やらオドロオドロしい妖怪でも出てきそうな気配だが、実は、もっと前向きな意味がある。

 うめくは、呻くと書く。口はいわゆるクチを意味するよりも「お祈りの言葉を書いた札を入れる器」のことだという。申は神にもあるように、やはり神にまつわる意味を持ち、電光が斜めに走る形でそれが神が現れる姿だと考えたのだという(注)。こうなると、呻く姿が祈る姿に重なってくるから不思議だ。それにしても、神の前で呻くというのも少し変な感じがする。しかし、辛い現実の前で、乗り越えられそうにないほどの逆境の中にあって呻吟するのは、実は、神の前で叫びを上げている姿なんだと、古代中国の人々が理解したのだとすれば、パウロの神学に何と近いことか!

 パウロは言う。
 「被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」

 生きづらいと言うか、難儀なことが多いというかそんな現実に生きる私達のあえぐ姿は、私達が贖われたい、つまりよりよい者、より生きやすい人生に変えられたいとの願望に他ならない。もしあなたが、霊の初穂(つまり霊のプレゼント)を受けた信者であるなら、そんな呻きの厳しい現実に押しつぶされることなく顔を上げて生きていけることが保証されていることが分るはずだ。 

 虚無に服しているはずの被造物、つまり「明日は炉に投げ込まれる野の草」(マタイ6,28)のようにはかない被造物でさえ、神の意志の外にあるものではない。つまり、人に踏まれて果てる草花の命でさえも神はいとおしみ、永遠に私達人間を飾るものとしての使命を全うさせてくださる。それが、パウロの言う「被造物の贖い」ではないのか。パウロは、あの山上の垂訓の主の言葉を思い起こしながらこの下りをしたためたに違いない。自然界を眺める柔らかでやさしい主の眼差しがパウロの神学によって深められ、被造物達のはかなさの呻き、自然界に君臨する人間達の呻き、つまりこの地上のあらゆる呻きに希望の光を当てられた。

 「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りない」と胸を張ることは出来ないとしても、また、私達の様々な呻きを、友達や家族と共有しようとするのが自然なことだとしても、どうせなら、神に直接呻いてはどうか。そうしたら、呻きの祈りとなって、冒頭で述べたように、申は「神が現れる様」なんだから、電光石火霊験(れいげん)あらたか?ま、希望の光を受けることは間違いない。

注:白川 静著「字統」467頁


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