カテドラル祈りの家ではない
作成者 admin
—
最終変更日時
2006年03月29日 11時50分
≪聖体安置を巡って≫
カテドラは椅子のことです。権威の椅子です。教会の指導者が、その椅子に座って、信仰と道徳にして信者に教話を述べたり信ずべきことを公表するわけです。ペトロの後継者としてのしかるべき権威を保証する椅子なのです。沢山の人が集まるわけですから、椅子は中心におかれるのは当然で、しかも、よく見えるように高い位置に置かれます。その椅子を置いた家がカテドラルなのです。
このように、カテドラルは、本来、沢山の人が権威のもとに集まるところであって、ミサや祈りをする場所ではないのです。その中心はあくまで、祭壇でもなく、ご聖体でもなく、権威の座でなければなりません。つまり、椅子が中心なのです。
バチカン広場で教皇謁見が行われます。人々は、祈りのために集まるのではありませんし、ましてミサをするために集まるわけでもありません。あくまでも、パパ様の話を聞いたり、直接会うために集まります。カテドラルとは、その広場に屋根をかけたものだと考えることが出来るでしょう。
日本の教会で、カテドラルに聖体を安置すべきだとかすべきでないとか、信者の中に混乱を招いたりするのはどうしてでしょうか。問題は、カテドラルが小教区の教会を兼ねているところにあります。しかも、「初めに小教区の教会ありき」なのであって、信者が増え、教区として独立したとき、その教会がカテドラルに指定されたわけです。今まで、祭壇を中心に主日の集いがもたれ、普段はご聖体の前で静かに祈り、主との深い親しみに満たされた安らぎの場であった聖堂からご聖体が消える寂しさは体験したものでないと分からないでしょう。
中世ヨーロッパ全土がカトリックとなり、教会が組織的にも完成された時の教会の権威は絶対でした。キリストの権威は永遠に絶対ですが、組織としての教会は、35年前に開かれた第二バチカン公会議によって大きく変わりました。権威の椅子は必要ですが、中世的権威の名残をとどめていることも確かです。それも仕方のないことですが、椅子を優先するか、素朴な聖体信心を優先するかは、まさに指導者の司牧的配慮に委ねられていると言えるでしょう。