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汚(けが)れた霊とは

作成者 admin最終変更日時 2006年03月29日 11時50分

 汚(けが)れた、という言葉から連想するのは、罪に染まった、清くない、よこしまな、不純なという言葉です。

今週のポイント 汚(けが)れた、という言葉から連想するのは、罪に染まった、清くない、よこしまな、不純なという言葉です。これに、イエスのことを快く思わず、スキあらば陥れようとしている律法学者やファリサイ派といった指導者たちのことと思い合わせると、汚れたという言葉には、さらに、下心、不純な動機、裏表のある、不誠実、独りよがりなどのイメージが重なります。

 人々がイエスの話しに驚いたのは、「 律法学者のようにではなく権威あるものとしてお教えになった」からだとあります。当時の権威者といえば、律法学者たちに決まっていたと思うのですが、マルコの記述は、イエスの話が、彼らと違って、人々の心にいかに深く、まっすぐに浸みていったかを伝えようとしているかのようです。人々は、イエスの凛(りん)とした態度に犯しがたいまっすぐなものを感じたのだと思います。マルコは、本当の権威は律法学者たちにではなく、イエスにこそあると言っているかのようです。

 面白いのは、「正体は分かっている」という汚れた霊のセリフです。敵対する者に使うときは「正体を暴いてやる」とかあまりいい意味では使いません。マルコは、ここで、偽善的な律法学者たちの「正体を暴こう」としているかのようです。また、「我々を滅ぼしに来たのか」というのも、正体を暴かれそうに感じた律法学者たちの叫びのようにも聞こえます。マルコの皮肉と言えるかもしれません。

 こう見てくると、汚れた霊とは、何かオドロオドロしい不気味な霊気ではなく、いつも自分たちの立場にこだわって下心があり、人々の悲しみを理解しようとしない独善的な生き様のことを言っているようです。実際に、律法学者たちは、十字架にかけられ、苦しみの極みにあるイエスを侮辱し続けたのです(マルコ15章31節)。彼らこそ、「汚れた霊」の持ち主と言えます。


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