信仰のモザイクを造る
作成者 admin
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最終変更日時
2006年03月29日 11時50分
マルコによる福音2章21-22節
誰も織りたての布から布切れをとって、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れは一層ひどくなる。また、誰も、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は新しい革袋に入れるものだ。
古い袋ということから、「水漏れの信仰」ということを連想してしまう。私たちの信仰の姿をイエス様が眺めると、つい吹き出してしまうのではないかと思ったりする。信仰の袋というのがあるとして、水はさしずめ神の恵みとしよう。水が漏っているとも知らずに、神妙な顔で祈ったたり、ミサを捧げたりしているのを見て、「あ、あ、あまた漏っている」と思わず声を上げたくなるかも知れない。
そういう皮肉めいた言い方はともかくとして、そんな袋が、水漏れのしない新しい袋になるにはどうしたらいいかというのが永遠の課題。そんなことを思いながら、何気なく当日のパンフレットの表紙に目をやって思わず「これだ!」と膝をたたいた。
イエスのモザイク。 そうだ、信仰するというのは、いろんな材料を拾い集めて自分なりのイエスのモザイクを造っていくようなものだ。材料が不揃いでも立派な作品になる。目のようでどこかおかしい、耳のようで何となくおかしい。しかし、どんなに不格好でも、今度はイエスは吹き出したりしない。自画像ならぬ他画像の自分の顔に戸惑いながらも、「ふむ、ふむ」と肯きながら、むしろ、励ましている風だ。
完成することのない作品とは分かっていながら、どこかおかしいイエスのモザイク。その原因がやっと分かったと、また、膝をたたいたのは、あの内観だった。イエスのモザイクを作る一番大切な材料が、子供の頃からこの方、母親をはじめ身内や周りの人々から「していただいた」恩の数々だったとは。なのに、「うるさいの、まずいの」と恩をアダで返すような文句の数々。そんなこんなをみんな、記憶の彼方にしまい込んで何食わぬ顔で、何十年も、祈り、ミサを捧げていた自分に赤面。遅ればせながら、母に身内に周りの人々に許しを請い、和解を願う。やっと、どことなくおかしいモザイクに「目鼻がついた」思ったのだった。