預言者の流れを汲む
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最終変更日時
2006年03月29日 11時50分
マルコ1章12節
聖霊は、ただちに、イエスを荒れ野に追いやった。イエスは四十日間荒れ野にいて、サタンから試みを受けた。そのあいだ、野の獣たちと一緒におり、み使いたちがイエスに仕えていた。
野獣と暮らすというのは、まるでターザン。アッシジのフランシスコのようでもある。しかし、試みを受けたというのだから、血に飢えた野獣がうろうろする荒れ野で飲まず食わずの荒行をやったということか。天使たちが仕えていた、というのも意味ありげ。
「洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。」(ペテロの第一の手紙3章21節)「良心」というギリシャ語原意は「共に見る」。独断だが、「願い求める」は「同意する」の訳がふさわしいように思われる。
そうすると、洗礼を受けて信者になるというのは、「神と共に見る生き方に同意すること」と言える。ここに、イエスの不可解な行動を解くヒントがありそう。イエスは、宣教活動に旅立つ前に、身の危険を冒してまで、「神と共に見る生き方」を確立したいと思ったのかもしれない。飢えと渇き、そしてさまざまな危機的状況。それでも、神により頼み、不変の信仰を貫く。
ところで、荒行の四十日間、イエスの心に去来したのは何だったのか。先祖たちの四十年に及んだという砂漠を行く出エジプトの旅。激しい飢えと渇き故の神不信。それに続く約束の地での王国建設と民の分裂。不信仰と偶像崇拝。エジプトでの非人間的奴隷状態から救いだした神に恩をアダで返す反逆の歴史。そしてバビロン捕囚。
しかし、イエスの心にはもう一つの思いがあった。子供の頃から、会堂と呼ぶ集会所で長老たちから聞かされた民の先導者たちの物語。一人息子の「イサクを捧げよ」と無理難題を押しつけられても神にハイと答えた英雄的信仰の持ち主アブラハムに始まり、いかなる苦境に立たされても、体を張って、「神と共に見る生き方」を貫いた歴代の預言者たち。自分も、この人々の流れを汲む一人となる。岐路に立っている自覚。そして、荒野で一人、神にハイと力強く答えるイエス。荒行の結論。マルコの表現は「天使たちが仕えていた。」それでも神から離れなかったということか。
ところで、洗礼を受けて信者になった私たちもまた、この預言者たちの流れを汲む者。痩せても枯れても、誇り高き民。しかし、現実には、苦境に立たされると、気力を失い、嘆き、失望、落胆、不平、不満。だが、苦境こそ「神と共に見る」ための神からの荒行メニュー。そう言える気力こそ預言者の流れを汲む証し。信仰は神の気力に満たされることだからできる。