教会を辞めます。しかし神様は信じます
彼女はかなり深刻でした。「教会を辞めたい。」純粋な気持ちで洗礼を受け、新しい人生が始まったことに深い喜びを感じていた頃が懐かしい。そう思う人は結構多いかも知れない。
彼女はかなり深刻でした。「教会を辞めたい。」純粋な気持ちで洗礼を受け、新しい人生が始まったことに深い喜びを感じていた頃が懐かしい。そう思う人は結構多いかも知れない。そうでないことを願うが。「でも、信仰は別です。神さまは信じていますよ。」
「神は信じるが、教会はもういい。」
理にかなってる感じがする。それで、つい、「そうだね。お祈りは家でもできるし、神さまはどこにでもいらっしゃるから。」そんな風に慰めたくもなる。しかし、果たして、この命題は正しいか。結論から先に言えば、これは自己矛盾。
主日のミサの中で唱える信仰宣言。「…聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、体の復活、永遠の命を信じます。」
教会を信じます。人間関係が嫌になった教会でも信じます。神学とか教会法とか、難しいことばかり言って、私みたいな者にはよく分からない教会でも信じます。神父が威張って、信者は黙って何も言えない教会でも信じます。とにかくこんなにひどいところとは知らなかったとがっかりすような教会でも信じます。あなたの大好きなイエス様がお建てになった教会だから。
教会は誕生の時からガタガタ。ユダがイチ抜け。弟子が師を金で売る。何という悲劇。人知れず、ひっそりとその日暮をしていた純朴な田舎出身者たちが、イエスの弟子となって人目に付く存在に。自分たちが何者かであるような気持ちの高揚。「ここは子供の来るとこじゃない。」イエスの前から、子供たちを声高に叱って追い帰す権威者の風情。「神の国とかいうのが来るときは誰が王の右と左に。」もはや、野心家集団化。空中分解の危機を乗り越え、やがて活動舞台はローマ、ヨーロッパ。ついに、聖地奪回の名の下に武力と殺戮を正当化。十字軍は現地の人々には恐ろしく残虐な侵入者だったという。教会の歴史は暗黒に満ちている。
そんなボロ教会をイエスは信じ続けた。「地獄の門もこれに勝つことはない。」イエスの祈りは続いた。その実りが第二バチカン公会議。教会の刷新。魂に目覚めた教会。ゲッセマネの園で血を流して捧げたイエスの祈りに答えようとやっと動き出した教会。だが、まだまだ。
一方、最愛の子が建てた教会を父なる神は、放蕩息子を抱きしめたあの愛で、抱きしめてくれる。子の帰りを祈りながら待っていたに違いない。子も、父も教会の動きに一喜一憂。
そんな風に、子からも父からも愛されているガタガタの教会を信じます。そういって何が悪い。なのに、教会を辞めるというあなたは一体何者か。
ケンカを売るわけではないが、あなたの命題を撤回してくれたら嬉しい。そして、あなたの子が、どんなにいけないことをしでかしても、見捨てることのないその痛む愛で「ガタガタの教会」を愛し続けて欲しい。