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信じない者は裁かれない?

作成者 admin最終変更日時 2006年03月29日 11時50分

ヨハネ3、17-21(ファリサイ派ニコデモとの問答続き)

今週の聖書

ヨハネ3、17-21(ファリサイ派ニコデモとの問答続き)

神が子をこの世につかわしたのは、世を裁くためではなく、子によって世が救われるためである。子に信頼して歩みを起こす人は、裁かれることはない。信頼を持って歩みを起こそうとしない人は、すでに裁かれている。神の一人子である方に、信頼して歩んでいないからである。
裁きとはこれである。すなわち、光がこの世に来たが、人々は光よりも闇を大切にした。自分らの生き方が威圧的だったからである。上辺をつくろっている人は皆、光を嫌い、光の方へは来ない。自分の生き方をさらけ出したくないからである。
真実を生きる人は、光の方へくる。自分の生き方が、神の中で支えられていることが、はっきりするからである。(小さくされた人々のための福音より)

今週のポイント信じない者とは「信じて歩みを起こそうとしない人」。自分を信じられない人?人を信じられない人?未来を信じられない人?いずれもつらい質問だが、そういう人は、というか、そういう場合、確かに現状打破は難しい。それを裁きと言えば、そうかなとも思う。また、信じない者、つまり、信者でない人は裁かれるとなるともうお手上げだ。

いずれにしろ、イエスは、私たちに、脅しをかけようとしているのか?イエスが、今日「の所で言いたいのは一つ。「世を裁くためではなく、世が救われるため」。

なのに、ファライサイ派の君たちは、ユダヤ教の旗頭でありながら、自分たちの地位や名誉を鼻にかけ、威張ってばかり。立法や伝統を振りかざし、人々を裁き、希望を取り上げている。いかにも自分たちが神であるかのように。そんな君たちこそ、私を信じて歩みを起こそうとしないあなた方こそ裁かれていることを知るがよい。

だから、無神論者や、周りの信者でない人は裁かれていると、言っているのではない。話のついでに、威張っている人たちを諭しているわけで、そんな人たちをも含めた神に逆らう世がどんなに邪悪であろうと、神の裁きの対象ではなく、愛の対象なんだということを、こそ、ファリサイ派の人たちは言って人々に希望を与えないといけないのに。というイエスの嘆きをこそ聞かないといけない。

お分かりかな。質問は、メールでどうぞ。

 


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