現在の場所: ホーム Binder 日曜日のはなし 2000年 苦しいときの神頼みvs神の栄光
ナビゲーション
最近のエントリ
ペトロパウロ休日 2014年06月29日
有難うシスターたち 2014年06月27日
大分教区司祭研修会 2014年06月26日
32年ぶり班制度 2014年06月24日
梅雨の晴れ間に 2014年06月19日
 
編集操作

苦しいときの神頼みvs神の栄光

作成者 admin最終変更日時 2006年03月29日 11時50分

今週の聖書

ヨハネ12,23-28(「小さくされた人々のための福音」より)

イエスは言った。「時が来た。いよいよ、人の子が、輝きを現すのだ。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。しかし、死ねば、多くの実をむすぶ。自分自身に執着する者は、自分を滅ぼし、この世にからめ取られた自分自身を憎む者は永遠の命に向けて自分を守り通すのだ。わたしに協力しようとする者は誰であれ、私についてくればいい。私が立っているところに、私に協力する者もともに立つものだ。私に協力しようとする者が誰であれ、父はその人を尊ばれる。
今、私自身不安でたまらない。だが、なんと言おうか。父よ、この時から救い出して下さいと言うのか。しかし、この時のためにこそ、私は来たのだ。父よあなたご自身をこの身に輝き出させて下さい。」
すると、天から声がした。「私は輝きを現した。また再び、輝きを現そう。」

今週のポイント今年の復活祭には、自分で蒔いた麦を収穫して種なしパンを作り、過ぎ越しの祭りを祝おうと思った。話を聞いたサトウキビ農家の叔父が、知人からもらい受けた麦を蒔き、代わりに育ててくれた。麦は見事に分けつして「多くの実を結んだ。」先日、叔父夫婦と収穫した。
しかし、今日の福音の鍵となる言葉は「一粒の麦」ではない。
「あなたの栄光を現す」すなわち本田訳では「あなたご自身をこの身に輝きださす。」

ところで、イエスは、話しの途中で誰に訴えるというのでもなく、突然、「不安でたまらない」と本心を吐露し、思わず叫ぶ。私たちなりに言えば、「神様助けて下さい!」

「一粒の麦が…」寄ってきた弟子たちに穏やかに諭していたはずが、「地に落ちて死ななければ…」と言ったとたん、十字架上の無惨な自分の姿が眼前に浮かんだ。血だらけの裸。身を裂く激痛。不気味な音を立てる兵士たちの鋭い槍先。予測していたこととはいえ、死が現実味を帯びて迫って来た。身震いするような恐怖が全身を包み、すっかり取り乱して思わず叫んだ。人間イエスの叫びは私たちの叫び。

苦しいときの神頼み。元祖はイエスさま?「神様、仏様!」思わず叫ぶ日本人にもっとも理解を示されるのはイエスご自身。
だが、イエスは、「神頼み」を越えた方。

身を固くしながら、それでも気を取り直したイエスの口をついて出た言葉は、日本人が思いつきもしないものだった。
「父よ、あなたご自身をこの身に輝き出せて下さい。」

私もそんなセリフを口にしなさい?「神頼み」だけでは足りないと?
「神頼み」は自然なことではあっても、やはり、自分のことしか頭にはない。落ち着いて周りを見回すと見えてくる。
苦しかった時のあの人の親切、励ましの言葉。あの忠告や叱責の言葉。思わず合掌したくなるではないか。「みなさんのおかげです。」そして、何とか答えていきたい、という気力が戻って来たことが。「いい人人に囲まれて幸せ」という実感。「やって行けそう」という予感。
善意の人々から受けた多くの恩の数々。それこそが、神が、私に必要な人を送り、その人々を通して神の好意が現されたということではないのか。神の命の輝きが私に現されたのだ。そうして、私が、単なる「神頼み」を越えて、神から命を分けてもらった者らしい人生を歩み始めた。私の人生が、私の信仰が厚みを増した。そして、イエスのセリフが私のセリフになれる。

こうして、なんとか、イエスの人生について行けそうな予感がするのだが。


Powered by Plone CMS, the Open Source Content Management System

このサイトは次の標準に準拠しています: