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ユダよ、ありがとう

作成者 admin最終変更日時 2006年03月29日 11時50分

今週の聖書

ヨハネによる福音13,1-15

過越祭の前のことである。イエスは、この世から父の元へ移るご自分のときがきたことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛しぬかれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてご自分の手にゆだねられたこと、また、ご自分が神のもとから来て神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手拭いをとって腰にまとわれた。それから、たらいに水を汲んで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手拭いで拭き始められた。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「私のしていることは、今あなたにはわかるまいが、後で分かるようになる」と言われた。ペトロが、「私の足など決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もし私があなたの足を洗わないなら、あなたは私と何のか関わりもないことになる」と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」イエスは言われた。「既に体を洗ったものは、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなた方は清いのだが、みなが清いわけではない。」イエスは、ご自分を裏切ろうとしているものが誰であるか知っておられた。それで、「みなが清いわけではない」と言われたのである。
さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席について言われた。「私があなた方にしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。私はそうである。ところで、主であり、師である私があなた方の足を洗ったのだから、あなた方も互いに足を洗い合わなければならない。私があなたがしたとおりにあなたがたもするようにと模範を示したのである。」

今週のポイントイエスが残された模範、「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」とはどうすることなのか。まさか、「友達の足を洗え」というわけではあるまい。

イエスはユダの足も洗った。しかし、「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」イエスの熱い思いは通じなかった。いや、ヨハネを除くほかの弟子たちにしても、どこかえ逃げてしまった。無駄だったイエスの模範。

無駄といえば、子供のころ、母親が声をひそめながら、「飼い犬に手を噛まれるとはこのことだ」と顔を曇らせたことがよみがえる。誰かのために一生懸命尽くしたのに、「恩をあだで返された」といったようなことだったと思う。

似たような体験は、時々する。正義感気取りで、自分も人にそんな思いをさせたことがある。きっと、苦々しく、言葉に表せない嫌な思いをさせたに違いない。

しかし、イエスの苦悩は私たちの及ばないものであった。ユダへの深い友情と期待。師を十字架で処刑させるほどの裏切りを敢えて選んだユダの決断。その恐ろしい決断ゆえの復活。死と復活を予告したイエスにとって、「死への手引き」を最愛の弟子の一人がしようとは!せめて、自分を亡き者にしようとたくらむファリサイ人や律法学者たちであってくれたら、どれだけ忍びやすかったことか!結局、彼らにだまされ、利用されただけの哀れなユダ。茨の冠で血を流す前にイエスの心は引き裂かれ深い苦悩の血に染められていた。

いずれにしろ、事態ははっきりしたのだ。「いずれ歩まなければならない十字架の道行の先導役をユダよ、おまえが果たしてくれたのだ。ありがとう。」イエスの口からかすかにもれたユダを思いやる感謝の言葉。それは、また、形容しようのない神の計らいの深さにたいするイエスの返事でもあった。罪を憎んで人を恨まず。

たとえ、恩をあだで返されるようなつらいことに遭遇しても、こんなふうに、あなた方も人を恨んだりすることなく、お互いを受け入れあって、神の道を歩んでほしい。イエスの模範。(聖木曜日イエスとの対話より)



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