痛くもかゆくもない?
作成者 admin
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最終変更日時
2006年03月29日 11時50分
ルカによる福音
…イエスご自身が彼らの真中に立ち「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこでイエスは言われた。「なぜうろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。私の手や足を見なさい。まさしく私だ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたたに見えるとおり、私にはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。……イエスは言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々にのべ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。
「イエスは復活して生きておらられる。」この命題を、いわゆる未信者に分かりやすく説明できるか。又、何よりも、信者の私にとって具体的にどう理解すればいいのか。
まず、第一の課題。復活そのものを私たちの言葉で説明できない。そのことは、カッコにくくるとして、「生きておられる」ということなら、比ゆ的にではあるが、ある程度できるのではないか。
近くに住む私の叔父は、時々お茶に呼んでくれる。話は、決まって、戦場での体験談になる。部隊の動向を左右する暗号を解読する重要な任務についていた叔父の話は、何度聞いても飽きない。いじめにあったこと、上官にたてついてでも筋を通したこと、等。正義漢の叔父の話は、まるで、その場に居合わせているような錯覚すら覚えるほど現実味があって引き込まれてしまう。つまり、五十年以上経っても、あの体験は叔父の中で昨日のことのように生きているのだ。生死をともにした戦友たち。今も生き生きとよみがえる彼らは、死んでしまった今も生きていると言える。その後の人生を左右するほどのものを彼は戦場で学んだという。
この叔父ほどに強烈な体験ではないにしても、両親や恩師、そして友人、また旅先で出会った人など、さらに様々な出来事など、今の自分にかけがえのない影響を与えた人々や思い出をそれぞれ持っている。そういう人々や出来事は、たとえ、今は側にいないとしても、また過ぎてしまっているとしても、各自の中に、まちがいなく、生きていると言える。
イエスが生きている、ということは、とりあえず、いわばそのようなことだと理解していいのではないかと思う。
ところで、こうした説明だけで相手は満足しないのではないか。私の信者としてのホンネが聞きたいのではないか。「顔の見えない公教要理」で済ましてしまいがちなのが教会の大きな欠点!(ここでは余計な発言)
聖書というか、イエスの言動には理解しかねることが多いが、それでも分かること、感動することもたくさんある。砂漠での誘惑。イエスとザアカイとの出会い。放蕩息子のたとえ話。などなど。他省略。私にとって今はこれで充分。私の想像を掻き立て、ぶっきらぼうな私の憧れを満たし、父なる神の広大無辺な親心に憩わせてくれる。
で、「痛くもかゆくもない」話はどうなったか。
復活して私の中に生きているイエスは、もはや、手と足とを見せたりはしない。しかし、私にとって、特に上述の聖書のエピソードを通して私の中に生きている彼と親しく対話できればそれでいいのだ。そんなイエスは、私の戸惑いや疑問、また怒りや悲しみ、あるいは三年前のヘルニアで激痛に泣いたときも、とにかく私の現実に無関心ではない。彼は、いずれのときにも、彼の下に行きさえすれば、決まって慰め、希望、喜びを与えた。彼の下に行かずに、一人で意地を張ったり鋭意努力しただけでは空回りしただけだったという思いでは多い。
私の誠実な友として、たとえ復活しても、私がガタガタである限り、「ボク復活しちゃったー」と浮かれてばかりはいられないのだ。「何とかましな司祭人生を全うしてくれないか」と日夜祈り続ける友なんだから当然なのだ。「痛くもかゆくもない復活のイエス」なんてボクはいらない。友情は教理(理屈的信仰)を越えて、なのだ。
復活の主を、フワフワとどこでも動き回れる透明人間の進化したものぐらいに思わせてしまう公教要理の犠牲者がもしいたら、その方々に本稿を捧ぐ。