顔色をうかがう
作成者 admin
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最終変更日時
2006年03月29日 11時50分
ヨハネによる福音15.1-8
わたしはまことのブドウの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。私の話した言葉によって、あなた方はすでに清くなっている。私につながっていなさい。私もあなた方につながっている。ブドウの枝が木につながっていなければ自分では実を結ぶことができないように、あなた方も、私につながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはブドウの木、あなた方はその枝である。人がわたしにつながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。私につながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなた方が私につながっており、私の言葉があなた方の内にいつもあるならば、望ものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かなに実を結び、私の弟子となるなら、それによって、私の父は栄光をお受けになる。
予想される反応。
①私は実を結ばない枝なのかもしれない。
②「願うものは何でも願いなさい。かなえられる?」まさか。
①のように思ってしまうと、この話は福音にならない。わたしは、皮一枚でかどうかはともかくとして、間違いなくつながっている。しかし、実を結ぶのにない方がいいと思われるよけいな枝をいっぱいつけていて、それを、父が取り除いて手入れをして下さる。と読めば大変ありがたい話になる。
私の信仰では、「いつまでも実を結ばないダメ信者!風呂の焚き物にでもなれ!」パチン、と切り捨てる父ではない。おん子を賜るほどに世を愛された父が、あの放蕩息子を迎えた父がそんなことをするはずがないからだ。
で、この話は整理すると次のようになる。「私はブドウの木。父は農夫。手入れをしてくださる。豊かに実を結ぶ。父の顔が輝く。」一人一人をどんな思いで手入れなさるのか。
気晴らしに、キャベツやナス、トマトなど季節の野菜を植えたりする。もちろん、無農薬有機栽培。しかし、豊かな収穫を楽しんだことはあまりない。まさに片手間なのだから当たり前だ。実りはおまけ見たいなもので、土いじりをする事で満足しているところもある。しかし、この春先に収穫したキャベツは、こぶりながらしっかり巻いてくれた。しかし、虫取りが毎朝の日課だった。
手前から、片手間の対象キュウリ、なす、ミニトマト
神様は、まさか、片手間に私の手入れをなさるのではあるまい。まして、私の枝を払うのに、害虫駆除の農薬のような、「枝取り名人」などという名の便利な新薬をお使いになるわけでもあるまい。そうではなくて、まさに「手を入れて」丹念にコツコツと、豊かな収穫を楽しみに待つ実直な農夫として寸暇を惜しんで働いておられるに違いないのだ。悲しいかな、私たちにはそれが実感できないことが多いのだが。
ところで、気になる反応②について。「願うことが何でもかなう」と言うイエスの子供だましのような印象すら受ける約束の真意は何か。
「予備校にも落ちた」という事実は私の全てをうち砕いた。外を歩けない、家族と口が利けない。数ヶ月の引きこもりから立ち直れたのは、やはり、家族の心遣いだった。私の小さな復活。つまり、「過去」を引きずりながら、それでも前進する力を得たこと。私の若い人生を切り開くために「必要な全て」がそこにあった。
イエスの場合、「この苦しみの杯を取り去って下さい」という願いは聞いてはもらえなかった。しかし、復活を得たのだ。不正な裁判を開いた指導者や意気地なしのピラト、それにふがいない弟子たちへの恨み辛みはもはやいっさいない。おん父の顔が輝いた(栄光を受けた)。それが全てを得たということだ。イエスの勝利は、父の手入れの勝利だった。
おん父の手入れは思いがけないところでなされ、それに何とか答えてくれると思わずにっこり頷いてくれる。
「何でも願うものが手に入る」人生なんて現実にはありえない。人生を豊かに生き抜くために必要なものはそうたくさんはない。もしかしたら、「何でも」含めてしまう一つだけなのかもしれない。イエスの復活に「つながる」私の小さな復活。
あなたの手入れをなさるおん父の顔色をうかがいながら生きるのが信仰。いつも、曇りのち晴れであることを祈りつつ。