昇天は招天
作成者 admin
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最終変更日時
2006年03月29日 11時50分
使徒言行録1,3,9-11
イエスは、苦難を受けた後、ご自分が生きていることを数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。
(中略)
話し終わると、イエスは、彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなた方から離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなた方が見たのと同じ有様でまたおいでになる。」
使徒パウロのエフェソの信徒への手紙4,1-6
主に結ばれて囚人となっている私はあなた方に勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和の絆で結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるように招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。
マルコによる福音16,17-18
信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らは私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手置けば治る。
「イエスの昇天」をどう理解すればいいのか。ロケットでもあるまいに…。そんな困惑を覚えてしまうのだが…。
まず、実際に、上空高く舞い上がっていったというリカイをしてはいけない。そのようなリカイでは、いまのあなたに何の意味もなさない、と思う。
で、「雲に覆われて…見えなくなった」と言うとき、聖書で雲は神の象徴なので、「神がイエスを覆った」、つまり、「イエスは、間違いなく神のもとに帰った。よかったよかった。」と言いたいワケ。だから、ルカは、「イエスは、…彼らを離れて天に上げられた。彼らは、イエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、…神殿の境内にいて神をほめたたえていた」(ルカ24,51-53)と記している。
イエスの昇天をそんなふうに理解するとして、普段使う言い方ではないが、「私の昇天」をどう理解するかはもっと大事。
それにしても、「(信じるなら)蛇をつかんでも、毒を飲んでも決して害を受けない」と言うイエスの真意はなにか。信者度百二十パーセントのスーパー信者といえども、これを真に受ける者はいまい。もしいたら、ここ奄美では猛毒蛇ハブ一匹五千円で買い取ってくれるので、たちどころにハブ長者になれる。冗談はともかく、これも、額面通りリカイしても意味をなさない。信じるとは元々そんなことを保証することではない。
あの凶悪犯罪を犯す少年たちを思うとき、彼らはまさに「害されている子ら」と思わざるを得ない。社会が悪いのか、家庭が問題なのか、ともかく、彼らも犠牲者。そんな風な視点で、あのみ言葉を読むと、信仰の価値が少し見えてくる感じがする。
ところで、パウロが、獄中から書いたというのが「エフェソの教会への手紙」。不自由極まりない囚われの身でありながら、彼の使徒としての情熱はいささかも「害され」ていないことに驚く。
そうでなくても、私たちの周りには腹立たしいことが多い。政治家のことや、警察や行政のやることなすこと。いやそんなことより、足下の教会。ガタガタを否めない。価値観の違う隣人の中にいると、日曜日ごとに信者の「操」を全うするのも困難が伴う。
そんなこんなで、この世にどっぷり浸かっている現実を振り返るとき、天を仰いで大きなため息をつくか。それもよし。「赤信号ばかりじゃないか!」と叫びたてるか。それもまた、宜(むべ)なるかな。
だが、「全てのものの上にあり、全てのもを通して働き、全てのものの内におられる」という父である神に「一つの希望」をかけて生きるか。たとえ悩み、苦しみ、躓き倒れるとしても、何とか神の「招き」に答えていきたいと思う。「天(神)の招きに」答える。すなわち「招天」。そして「害される」ことのない「私の昇天」。