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聖霊は上からは降臨しない!

作成者 admin最終変更日時 2006年03月29日 11時50分

今週の聖書

使徒たちの宣教2,1-11

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が別れ別れに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話し出した。
さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰ってきた、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まってきた。そして誰も彼も、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。
(略)

今週のポイントイエスと分かれて何日経ったことだろう。
外を出歩く勇気も出ないまま、引きこもっていた弟子たち。この数日、誰もが押し黙ったまま。そして、これまでの日々が、まるで未編集のビデオをみるように、整理のつかない頭に次々と去来するのだった。故郷のガリラヤ湖畔で初めて主とお会いしたときのこと。主とともに初めて群衆の前に立ったときの緊張感と恥ずかしさ半分の誇らしさ。それぞれが思い描いた神の国での出世の晴れ姿。そんな夢が一度に吹き飛んだ、あの悪夢のような主の逮捕と十字架の処刑。恐ろしさのあまり、夢中で逃げたこと。そして、復活の主との信じがたい再会。
リーダー格のペトロが、ふと思い出したかのようにつぶやいた。「私は世の終わりまであなた方とともにいる。」申し合わせたかのように、一同が大きく頷いた。それというのも、誰もが、強く深く感じていたのだった。時には優しく時には厳しく一人一人の心に生き生きとこだましている主の言葉を。初めての体験だった。こんなにも主を身近に、親しく、そして暖かく感じたのは。はじめて味わう主との深い出会い。ふと気がつくと、あれほど心に深く刺さっていた裏切りの苦い苦いトゲの痛みがすっかり消えていたのだ。そして、全身を包む不思議な甘美さ。わき上がる喜び。輝く顔顔…。「主が今ここに」という強烈な実感。期せずして起こった万歳コール。(彼らの場合アレルヤだったかも)。小躍りして喜ぶみんなをペトロが先導して表に出た。

で、聖霊は上から来たのではない。内からわき上がってきたのだ。「あなた方も神の住まいとなる」とパウロがエフェソ書で言っているのはこのこと。

日本の教会はなぜ低調か。上から来たからだ。つまり、公教要理という上、頭からしか入りようのない理屈から信者を始めたからだ。私たちは頭ではなく気持ちで生きていると言っても過言ではない。どんな割合かは分からないが、「気にくわない」「むかつく」「虫が好かない」「気乗りしない」「雰囲気悪い」など、選択の基準は「気持ち」が多い。頭も使うが、本音のところはやっぱり気持ち。頭では分かるが気持ちがついていかないこともある。理屈で人は変わらない。で、教理からしか始められない教会に未開発の部分があることを教えているのが聖霊降臨のハナシ。

ボーっとしていた弟子たちの気持ちが覚醒したときをもって教会の誕生とする事の意味を見落としてはならない。


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