イエスは三位一体を知らなかった
作成者 admin
—
最終変更日時
2006年03月29日 11時50分
マタイによる福音28,16-20
十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄ってきて言われた。「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなた方は行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに、父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことを全て守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。
「イエス様、あなたは三位一体の神の第二のご位格でいらっしゃるんですよね。公教要理でそう習ったんです。」あなたが、親しげに話しかけたとして、もっとも、今頃はそんなことを習う人もいないかもしれないが、イエスは、「さあ…。それ何のことですか?ワタシ、ワカリマシェーン」と肩をすくめ、きっと困惑するに違いない。
今日は三位一体の神様を祝うというのに、弟子たち派遣の箇所しか引用できないのは何故か。それも、「父と子と聖霊の…」とイエスが言ったとか言わなかったとかという箇所なのだ。つまり、「神様は三人だけどお一人なんです」という謎を、イエスは解き明かしてはいないということだ。そのからくりはどうでもいいということであって、聖霊とは、言ってみれば、「父と子の親子がかもし出すえも言われぬ雰囲気」であって、その雰囲気に飲まれるとつい、ふらふらっと、「まー、いいか!」と細かなことにこだわらないおおらかな気分になって、周りの人たちもつい、大きな安心と希望が湧くというもの。
お互いをあだ名で呼び合ったり、あんまり仲のいい人たちの中にはいると、「自分はよそ者」と感じてしまうことがある。逆に、初めて会うのに、ずっと前から知り合いだったような雰囲気を醸し出す人たちもいる。ザアカイさん(ルカ19章)はそんな雰囲気に巻き込まれた典型。イエス様と話していると、自分を村八分にしているエリコの人たちへの恨み辛みも消えて、思わず、「財産の半分を貧しいエリコの人たちに分けてもいい」という気になってしまったのだった。聖霊は、「私がそう言わせた」などと無節操なことは言わない。イエスさまだって、「今日この家に救いが来た」と手放しで喜ばれただけだった。
要するに、イエス様は、淡々と、父と子の親子のより好ましい関わりを生きただけだった。そんなイエス様に出会うと、「この人はただモンじゃない」とすぐに分かっただけではなく、「この方が本当に世の救い主であると分かった」(ヨハネ4,42)のだ。そのことが大切なことであって、三位一体を説明することではない。
三位一体について、木の根っこと幹と枝のことを持ち出したりして、公教要理をしたことがある。父と子と聖霊の「えもいわれぬ関係」を説こうとしたわけだが、今思うと、滑稽としか言いようがない。イエス様も聞いていてチンプンカンプンだったのではないかと思う。理屈には無理があることを知るべきだ。なによりも、理屈で信仰が分かるという思い上がりが怖い。
そうは言っても、三位一体の神を祝う意味みたいなことをやはり述べないわけにはいかない。伝統的理解をもとにして話さないといけないが。つまり、それぞれ個性的神様が三人、でも一体。ここに共同体の究極の姿がある。
が、しかし、これもまた、厄介な問題を提供する。違いはしばしば分裂のもとだからだ。しかし、教会はこれにチャレンジする。つまり、違いを認め合う共同体。すばらしい。しかし現実はしばしば逆。違いこそいのちの豊かさ。美しい。しかし、現実は、しばしばひんしゅくを買うばかり。一人一人が違うことを喜び合い、祝福し合う。そこまで言うか。しかし、現実は、しばしば苦痛。
たとえそうであっても、これらは、いずれも、私たちみんなのあこがれには違いない。そういう意味では、教会だけがチャレンジするのではない。「目立ちたかった」という若い犯罪者たち。「あなたはあなたでいい」と誰もが望んでいるメッセージを届けることが出来なかった家庭。大きく鳴り響く世の声に圧倒された家庭。いずれも犠牲者たち。そんな思いが募るだけに、「三位一体の神様は今こそ出番」という思いも強いのだが。