イエス、ぶっきらぼうな善人
作成者 admin
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最終変更日時
2006年03月29日 11時50分

マルコによる福音5.35-40
…会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ、信じなさい」と会堂長に言われた。そして、ペトロ、ヤコボ、またヤコボの兄弟ヨハネの他は、誰もついてくることをお許しにならなかった。一行は、会堂長の家についた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家に中に入り、人々に言われた。「何故、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。…
愛娘を失って悲嘆にくれる会堂長に、「恐れることはない。信じなさい」とはなんというぶっきらぼうな挨拶か。同じ状況下で、同じ言葉を僕が口にしたらはり倒されるかもしれない。そうでなくても、周りの者のひんしゅくを買うに違いない。で、「お気の毒でしたね。ずっと病気だったんですか。…そうですか。他に子供さんは?…そうですか。お一人だけだったんですか。…。」自分なら、時間稼ぎのような挨拶に終始しそうなところだ。
しかも、会堂長と悲しみを共にして泣く人々に、「何故、泣き騒ぐのか」とは何という無神経さ。さすがに人々は「あざ笑った」が当たり前だ。幸いに、娘の癒しが成功したので、事なきを得たものの、イエス様のものの言い方というのは、どうも結論めいたことをぼそっと言ってるようで、正直なところ好きではない。
それに、本論と関係ないが、不満ぽいことを言ったついでに言うなら、三人の「他は誰もついてくることを許さなかった」ほどのどんな理由があったのか。残された他の弟子たちはどんな気持ちだったのか。子供の頃、アメリカ人の司祭が兄他数人だけをジープに乗せて、僕だけを置いてけぼりにしたので、半泣きで家に走って帰ったのを忘れることが出来ない。
ま、いずれにしろ、聖書は伝記とは違うのでこんな批判は当たらないとは思うが…。
ところで、イエスのこのぶっきらぼうな態度こそ、まぶしいほどのイエスの個性なのだ。
信仰といっても、「あなたの独自性で味付けされた信仰」というように理解したい。もっと具体的に言うなら、活動的な人はそれなりに、おとなしい人はそれなりに、また心配性の人もそれなりに、楽天的な人もそれなりに、気の長い人も身近かい人も、それぞれに信仰の色があるのだ。
そして、超楽天的な信仰の色の持ち主が他でもないイエス自身なのだ。究極の信仰色。もっとも、イエスの信仰という言い方が神学的に正しいかどうかは問題だが、今は問うまい。超楽天的であるが故に、単刀直入。よけいな挨拶など要らない。イエスの言葉がぶっきらぼうに聞こえるのはそのためだ。ぶっきらぼうな善人。そんな印象が強い。
そんな個性的信仰の色を強烈に見せつけられると、活動的な人も、おとなしいひとも、心配性の人も自分の個性を誇りつつもまな板に載せないわけにはいかないのだ。そこにイエスの不思議な魅力がある。というよりも、私たちのけなげなイエス信仰がある。で、「恐れることはない」という言葉も、それぞれの個性に応じて、わがこととして考えようとすると、それぞれの個性に応じて、濃淡、強弱織り交ぜながら「福音」となるから不思議だ。自分に都合のいいような福音は福音ではないという反論が聞こえそうだが、とりあえず、自分なりに納得してみることは、ぶっきらぼうなイエスとつき合う第一歩なのだと心得よう。
今日はおしゃべりの域を出なかったかも。