一本の杖
作成者 admin
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最終変更日時
2006年03月29日 11時50分
マルコによる福音6.7-13
イエスは十二人を呼び寄せ、二人づつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本の他は何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履き物は履くように、そして「下着は二枚来てはならない」と命じられた。…略…十二人は出かけていって、悔い改めさせるために宣教した。
「金も持たず、杖一本だけ持って宣教の旅に出よ。」
イエスのこの命令は今も有効か?と問う前に弟子たちは一体どうだったのか。
考えてみると、イエスの弟子教育は道なかば。始まったばかりの感すらある。人々に語るほどの一体何を受けたというのか。心配すら沸くのだが。
「お名前を使うと悪霊さえも私たちに屈服します。」ルカが記す、派遣された七十二名の帰還の報告だ。マルコの十二名もきっと「えい、やっ」と悪霊を屈服させたりしたのだろう。しかし、一方では、とくに夜間、野獣の遠吠えに身がすくみ、また盗賊の恐怖に思わず杖を手に身構えたこともあったに違いない。
杖と言えば、アーロンの杖。ファラオの面前で、蛇に変わった魔術師の杖を飲み込んだ不思議な杖。水を打てば血に変わり、一振りすればゲロゲロカエルが跳びだし、と杖一本でファラオを翻弄(出エジプト記七章以降)。
万能杖を駆使しながら弟子たちは、アーロンやモーセに思いをはせていたかもしれない。そして、杖の魔力に驚嘆したこと、何よりもイエスの名の持つ威力に圧倒されたことなど、イエスを歓喜させるような報告をしたことだろう。そうなのだ。一本の杖に託したイエスの思いこそ弟子たちが気づいて欲しいことだったのだ。杖に全てを託して旅をすることが、イエスの意志を十全に果たすことになる。もっと言えば、イエスこそ彼らの杖、だったという気づきこそ、イエスが密かに期待していたことだったのではなかったか。
僕にとって、杖との出会いは、17年前に遡る。ルソン島の北、バギオ市から木製バス?に揺られて五時間。更に徒歩で四時間。パリーナという美しい高地の村にミサの奉仕に行ったときのことだ。「神父様、杖をお使い下さい。」案内の人が長い棒を手渡した。「まだ若いから要りません。」だが、杖は必要だったのだ。ジャングルを期待していたのだが、意外にも、禿げ山が多いのだ。登りはともかく、下りは険しく、足を滑らすと何十メートルでも滑り落ちてしまう。滑り止めに杖が威力を発揮する。登りは登りで、杖にすがると楽なことも分かった。
ところで、お立ち会い。あなたにとって一本の杖は?もちろん、それはイエスです!高らかに言えたらいいね。