あなたは本気か?
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最終変更日時
2006年03月29日 11時50分
使徒パウロのエフェソの教会への手紙(エフェソ2.13-18)
あなた方は、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。
実に、キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律づくめの律法を廃棄されました。こうして、キリストは、双方をご自分において一人の新しい人に作り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなた方にも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らされました。それで、このキリストによって私たち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことが出きるのです。
キリストは私たちの平和。
聞き慣れている言葉の割には、使い慣れない言葉だ。つまり、普段の会話で、平和という言葉すら口にすることはあまりない。平和旬間。平和憲法。新聞テレビの用語のような感じだ。まして、「キリストは私たちの平和」などと言う言葉を口にすることはまずない。司祭が説教で口にするか、黙想会のテーマとして取り上げられる位だ。
しかし、その平和が、①二つのものを一つにし、②敵意という隔ての壁を取り壊し、③戒律づくめの律法を廃棄することで実現すると言われるとかなり現実味を帯びてくる。
①に関して言えば、最近、深く傷つけた信徒の一人と仲直りしたことが思い起こされる。②に関しては、長い間抱き続けた父への恨みにも似た厚い怒りの壁が取り払われた十数年前のことが懐かしい。③に関しては、「良い子でなければならない」という律法が廃棄された霊操体験を忘れることが出来ない。しかし、これとて、①はともかくとして、②、③は特別な体験であって日常的ではない。
いずれの場合にしろ、日頃心がけているかというとその逆。
①無理に一つにすることはない。人それぞれ。分かる人は分かるし、分からない人は分からない。多様性の一致と言うではないか。
②敵意とまでは行かなくとも、恨み、辛み、ねたみ、悪口、憂さ晴らし。あきらめ。人は人、自分は自分。壁は、取り壊されるどころか、低くさえならない。
③立法という字しかしらないこのパソコンが教えているように、律法はもはやない?しかし、世間体、メンツ、自尊心、立場、建前、権威などなどのこだわりという律法が生きている。誰もとがめめたりはしない。それどころか世の中を支配している。もっとも、「ツマラナイ」という形容詞をつけたりはするが。
しかし、これらは、すでに、「十字架によって…滅ぼされた」ことになっているのだゾ。しかも、双方が「一人の新しい人に作り上げられ」てiいるのだゾ、とパウロが強調しても、「そうですか…」というのが現実。
で、現実の自分や、周りや、そして世界を眺めると、これは、ある意味でイエスの独り相撲。もっときれいな言い方をすれば、イエスの夢なのだ。いや、自分の命を懸けて、これらを実現し、自分の中に平和をうち立てた。それを基に、弟子たちへ、そして世界へと夢の輪(和)が広がった。その先頭を行くのが、キリスト者あなたなのだ。
あなたの望む平和がキリストの平和を基にしているか。パウロが突きつける信仰の果たし状。本気で受けて立たないなら、あなたはキリストの友ではない。