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どこでパンを買おうか?-奇跡を越えて-

作成者 admin最終変更日時 2006年03月29日 11時50分

今週の聖書

ヨハネによる福音ヨハネ6.1-15

(略)イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。イエスは目を上げ、大勢の群衆がご自分の方へ来るのを見て、フィリッポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、こう言ったのはフィリッポを試みるためであって、ご自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フィリッポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。(略)「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンのくずを集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の篭がいっぱいになった。(略)

今週のポイントあなたがフツウの信者であれば、「ああ、パンの奇跡」ですますに違いない。もしあなたが、少し本を読む信者であれば、「パンが増えたことが奇跡と言うより、少年のけなげな好意に触発されて、『実は私も少し』と次々に自分のものを差し出し、ついには皆が満腹するほどになった。で、一人一人が自分のものを惜しまずに提供する気になったことこそが奇跡なわけで、パンは元々あったのだ」と受け売りの説明で満足することだろう。もしあなたが、フツウの人なら、「パンが増えた?そんなバカな」と一笑に付すかもしれない。

一人一人にハンロンするつもりはないが、キセキにこだわらずに読むと、それなりに見えてくるものがあることに気づくのである。

まず、「この人たちに食べさせたい」というイエスの気持ちをくまない説明は、気の利いたかつ教訓めいた、ただの話になることを忘れてはならない。で、「どこでパンを買おうか」と聞いたときのイエスの気持ちは、「どこで買おうかですって?あなたこそ、命のパン(35節他)じゃありませんか!」と来て欲しいところだが、「まだ分かりっこないんだから仕方ない」だったに違いない。

こんな風に読むと、「パンを取り、感謝の祈りを唱えてから、…分け与えられた」姿に、なんとなく最後の晩餐の雰囲気が漂ってくるのだ。フツウの信者なら、最後の晩餐と来れば、ミサとの連想が働く。ミサと来れば、御聖体。御聖体と来れば、命のパン。

ここまで来ると、「この人たちを死ぬまで養い続けたい。つらいことがあっても、どんなに悲しくて、どんな失敗を犯しても、ねたまず、恨まず、自暴自棄にならずに信、望、愛の人生を全うして欲しい。命のパンを旅路の糧として」となる。

実は、そんなイエスの気持ちをいただくのがミサなのだ。「キリストの体。」「アーメン。」と言うとき、あなたはそんなイエスの、弱く小さな我々に強く生きて欲しいと今も祈り続けるイエスと出会っているか。

そう言えば、ヨハネがこの話を書いた一世紀の終わり頃の信者たちは、迫害のため動揺し、パンを裂く式、つまりミサに集うことを放棄する人たちも多くいたという。ヨハネはそういうガタガタの共同体強化のため、イエスの代弁役を果たしているのだ。

「少しも無駄にならないように。」せっかくの気持ちが無駄。人の気持ちを粗末にすることは人道上もいけないこと。今も変わらないイエスの気持ちをくみながら生きていくことが信仰。時を越え、奇跡という非科学的デキゴトを越えて、イエスの思いがこだまする。


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