変容への道
作成者 admin
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最終変更日時
2006年03月29日 11時50分
マルコによる福音マルコ9.2-10
六日の後、イエスはただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばないほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、私たちがここにいるのはすばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これは私の愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはや誰も見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。
一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことを誰にも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。
六日前、イエスは、弟子たちに聞いた。「…それではあなた方は、私のことを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたはメシアです。」ところが、「人の子は多くの苦しみを受け、…排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている。」ペトロの正解を喜ぶどころか、顔を曇らせながらの衝撃的な告白。面食らったペトロがいさめた。すると、「サタン引き下がれ!」形相(ぎょうそう)険しく一喝されて、ペトロは腰を抜かさんばかりだった。「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている!」「?!|*&%#…」ペトロの頭は完全に機能停止。
そんなことがあってからの「六日の後」なのだ。イエスがまたしても、真剣な面もちで、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの名を呼ばれた。三人は思わず身を固くし、顔を見合わせた。そして、黙って歩きだしたイエスの後に従った。なぜか、六日前のことが三人の心に去来していた。
前を行くイエスの突然の変容!
変容のデキゴトには黙示文学の手法が多用されている。高い山。真っ白に輝く。雲。雲の中から声。などなど。だが、そんな解説を続けることは、現実の生活に意味をなさないので、これまで。いずれにしても、「巧みな作り話を用いたわけではありません」(2ペトロ1,16)とペトロ自身が言っているのだから、イエスの身に起こった何らかの「変容」を「目撃した」(1,16)のだろう。
そうだとしても、つまりイエス自信の変容がどうあろうとも、私たちには特別の感慨はない。むしろ、弟子たちの身にも「変容」が始まりつつあった!ことの方が問題。で、どんな変容か。
「彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。」六日前に機能停止したペトロをはじめ三人の頭が活性化し、聞いた言葉を「心に留め」たのだ。心に留めることこそ究極の聞く姿勢。しかも、復活について高尚な議論を始めたのだ。
彼らの変容!
もっとも、すぐ後で、「誰が一番偉いか」(9,34)というエゲツナイ議論に終始したりするので、あまり誉めたものではないが。
ところで、私たちの人間関係を眺めると、
誰かとぎくしゃく。誰かに偏見。誰かに劣等感。誰かとの競争意識。命令的。支配的。などなど。そんな時は、間違いなく、気持ちよく話せないだけでなく、聞けない。
逆に、わだかまり解消。偏見さらば。自己価値発見。自分は自分の平常心。そんな時は、気持ちよく話せるだけでなく、心に留めて聞けることに気づく。
私の変容!
実はそれこそ私の復活!
もっとも、あのころの弟子たち同様、定まらないのが玉に傷。それでも、「聞け」る信者になれよと天の声。聞けない固い心のままでいたら、あなたは信者ではなく患者だ。