イエスの懇願
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最終変更日時
2006年03月29日 11時50分
ヨハネによる福音ヨハネ6.60-69
その時弟子たちの多くの者は、イエスの話を聞いて言った。「実にひどい話だ。誰が、こんな話を聞いていられようか。」イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。(略)命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなた方の内には信じない者たちもいる。」(略)「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、誰も私の元に来ることは出来ない』と言ったのだ。」
このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、私たちは誰のところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉をもっておられます。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、又知っています。」
福音書の話にはいる前に、ヨシュア記を少し見ると。
ヨシュアはモーセの後継者。イスラエルの全部族をシケム(注参照)に集めて演説をする。アブラハムから説き起こして、エジプト脱出、カナアン侵入、そして土地取得。それは、みんなみんな、イスラエルの神、主の業。「…だから、主に仕えなさい。」それがいやなら、「川の向こう側にいたあなた達の先祖が使えていた神々でも、あるいは今、あなた達が住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、私と私の家は主に仕えます。」(ヨシュア記24,15)
多くの弟子たちに見捨てられたイエスの状況と遙か昔のヨシュアの状況とそして今日の教会の状況。時代が変わっても信仰の状況は変わらない。ヨシュアの向こうを張って、「教会を辞めたかったらどうぞ!」とタンカを切ってみるのも痛快だろうなあ。
「おまえたちも行きたいか?それならそれでいい。ワシは一人になっても頑張るゾ!」ド根性イエス。しかし、イエスの言葉にはそんな勇ましさは感じない。いくらイエスといえども、人々にそっぽを向かれて気持ちがいいわけがない。しかも、弟子たちにだ。弟子と言えば、イエスには十二名以外に多くの弟子がいた(注参照)。弟子と言うぐらいだから、一般の民衆よりももっとイエスに共感し、イエスのために働くことを喜びとしていた人たちに違いない。そんな、いわば、親衛隊から見捨てられたのだから、失望は大きく、やるせない気持ちではなかったか。深く傷ついたと言っても過言ではあるまい。
イエスは、去っていく弟子たちを引き留めない。そして、とがめない。むしろ、側にいる十二人に、まるで懇願するように声をかける。「おまえたちも行きたいか。おまえたちはワシと一緒にいて欲しい。」ゲッセマネでの悲痛な祈りにペトロ、ヤコボ、ヨハネを伴われた時のように。
無学なペトロは、去った弟子たち同様、難しい話は分からなかった。しかし、ふるさとのガリラヤ湖畔で、「私についてきなさい」と声をかけられたイエスのまなざしを忘れてはいなかった。イエスの指示に従った結果の大漁のことも。そして、今、孤立無援の師を前に、素朴なペトロの心が再び燃えた。「主よ私たちは誰のところへ行きましょうか!」イエスの前に立ち、胸を張って答えるペトロの信仰告白。そして、再度の選び。ざわめきが消え、ガランとしたカファルナウムの会堂にペトロの弾んだ声がリンと響いた。イエスの心もふるえた。
日本教会の低調ぶりは目に余る。としても、もはや共に歩まなくなった兄弟姉妹たちにではなく、何とかつながっている私たちに、イエスは同じ懇願をする。日曜日ごとの信仰宣言は洗礼の更新。聖体拝領前の祈り「主よ、あなたは神の子キリスト永遠の命の糧。あなたを置いて誰のところに行きましょう。」再度の選びの宣言。そして、拝領時の「アーメン!」は再再度の決意表明。