元祖清潔中毒
マルコによる福音マルコ7.1-8
ファリサイ派の人々と数人の律法学者達が、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に、汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。ーファリサイ派の人々をはじめ、ユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。ーそこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」イエスは言われた。「イザヤはあなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先で私を敬うが、その心は私から遠く離れている。人間のいましめを教えとして教え、むなしく私をあがめている。』あなたたちは、神の教えを捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
「チェツ、清潔中毒!」万全の注意を払って準備して迎え、もてなし、そして送り出した後、「ヤレヤレ何事もなくてよかった」と一息つくときのセリフ。アジアのどこかの国の実話。金持ち日本人は大事なお客様。気前よく使って貰って儲かるのは嬉しいが、下で働く人たちがいかに苦労しながら準備し、迎えたかが分かるような気がする。
清潔中毒と言えば、先日手にした通販のカタログを開いていると、材料は「抗菌塗装」してあるという犬小屋があった。犬のためか飼い主のためかは分からないが。「抗菌ナントカ」という品物は多く出回っている。
ところで、清潔中毒の元祖はユダヤ人。市場から帰ったら身を清める。エルサレムのあのダマスコ門を通ってジャッファ門まで行った人なら分かると思うが、まさに市場通り。大変な人混みで、袖振り合うも多生の縁などとのんきなことは言っておれない。スリにご用心は聖地の合い言葉。
話がそれたが、市場には異邦人もいればザアカイさんのような徴税人(ルカ19章)もいる。みんな汚れた人々。そんな中に身を置いたのだから汚れに染まった。さあ大変。神の民の清さを取り戻さねば。笑えない独善的な人種差別。人を人とも思わない清潔中毒信仰!そんな信仰は偽物。神から遠く離れている。イエス、ユダヤ人を一刀両断。
しかし、何をもって、「神から遠く離れている」というのか。親が我が子を抱きしめようとしたら子がおびえて固まった。そんなことがあるとすれば、親子のキズナは疑問。近くて遠い親子の溝は深刻。この越えがたいほどに深い溝、不信や恐れ、を見抜いていたのが預言者。それを埋めたのがイエス。
ところが、カトリックは銅だ。(どうだ?と単に問うたつもりなのに銅ときた。イヤミなパソコン。せめて道と出て欲しかった。又横道。)「恐れは信仰の動機足りえない。」イエスの福音は、二千年の時の中で見事に変質。
記憶に新しい祈祷書の罪の箇条。その数の多さに圧倒されながら、「今日はどれにしようかな」と選択を楽しんだ少年時代。そんなアソビはやがて深刻な罪意識と自己嫌悪へ。そして劣等感。火の燃えさかる地獄への恐怖。気がついてみたら、重症の恐れ症候群清潔中毒信仰。二度と帰りたくない黒一色の僕の青春。カトリック教会よ僕の青春を返せ!またまた本音の横道。
17年前、フィリッピンの山奥の教会で出会った穴だらけのTシャツを着た青年に、「日曜日ぐらいましなシャツを着たらどうだ」と言った。「神父様、これ一着しかないんです。」申し訳なさそうに彼が言った、とする。実は、教会は同じ位むごいことを僕らに要求してきたのだ。「もっとましな信者になるように。頻繁に告解をしなさい。」「だけど、いつも同じ事ばかり繰り返す僕はこの僕一人です。取り替えが効かないんです。」困惑しながら僕は答えた。
で、時は流れ、教会は刷新され、「そんな君を神様はこよなく愛しているんです。」これまで、さんざん「固まって」きた習い性で、甘い言葉に簡単に乗れない自分をまた責める僕だった。だが、福音は蘇ったのだ。新しい地平。暗い過去を一気に払拭するほどの福音の力と輝き。さらば、ボヤキの信仰!清潔中毒信仰よ、さらば!
突然の幕切れですみません。
もう午後四時。母がデイサービスから帰宅するので、受け取りに行く時間なのです。あ、これも余計でしたね。