イエスのうめきが聞こえない
作成者 admin
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最終変更日時
2006年03月29日 11時50分
マルコによる福音マルコ7.32-37
人々は、耳が聞こえず、舌の回らない人を連れてきて、その上に手を置いて下さるようにと願った。そこで、イエスは、この人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで、深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことが出来るようになった。イエスは、人々に、「誰にもこのことを話してはいけない」と口止めされた。しかし、イエスが、口止めされればされるほど、人々は、かえって、ますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことは、全てすばらしい。耳の聞こえない人が聞こえるようになったし、口の利けない人を話せるようにして下さる。」
イエスのまじないが効いた!耳の穴に指を差し込んだり、指をなめて舌に触れたり。天を仰いで深呼吸。そして、「エイ!」と気合い鋭く叫ぶ、無表情なまじない師イエス。そんな感じがして可笑しかった。
先の仕草は、まあ、分かるとして、「深呼吸」は何のためか。気を静めるため?神から気を貰うため?そうだとしても、やっぱり魔術師的。メッセージがないではないか。
実は、「深呼吸」しかイメージさせない「深く息をつき」がいかに中身の乏しい訳語であるかを発見したのだ。で、聖書学者の向こうを張って、少し教養をを披露すると、この言葉は新約聖書では六回(注)しか使われていない。回数はどうでもいいが、いずれの場合も、のんきに深呼吸などしている場合ではないのだ。何よりも、辞書の訳語は「ため息をつく。うめく。嘆息する。」英語だと「groan(うめく). sigh(ため息をつく). 」
ちなみに、他の五カ所の訳語は、「うめく。苦しみもだえる。嘆かす。不平を言う」となっている。確かに、うめくにしても、ため息をつくにしても、「深い息をつく」ことは確かだ。しかし、それは、結果に過ぎない。
そんなことを思いながら、、さっきのまじないに戻ると、無表情のイエスはもはやない。
どこに行ってもぼろをまとった業病(ごうびょう)を患った人が絶えない悲惨な現実。立派な耳を持ちながら聞こえない。イエスにもそのつらさは想像できなかった。なめらかな舌の持ち主に、舌のもつれが毎日続く苦しみは分からない。思わず、耳の穴に指がのび、もつれも解けよと、思わず自分の唾でぬらしてみたくなった。そして、気持ちが高まり、思わず、天の父に向かって、うめきとも不平ともしれない叫びを上げた。「この人が、何故こんな苦しみを負わねばならないのか!」いまだに我々を戸惑わせる苦しみの神秘。イエスもその前でうめいた。唇をかみ、顔をゆがめて…。
「神は我らと共におられる」と呼ばれるほどの人が、人の不幸を前にして無表情とは!いや、実は、「無表情なイエス」こそ我らが主なのだ。公教要理という国策で知らぬ間に表情をそがれたのっぺらぼうのイエスを信じ込まされたのだ。また、知的な学者達が、どんな不幸を目の前にしても動じることなく、靜に深呼吸するゆとりに満ちた「沈着冷静な知的イエス」を生み出すのに加担した。
ついでに言えば、「言い広めた」は「福音宣教した」と同じ言葉。それなら、「噂が噂を呼んだ」ぐらいにしか思わせない「言い広めた」より、せめて、「イエスからの喜びを伝えて回った」とでも訳すべきではないかと「不平を言い」たい。
いずれにしろ、「そんなイエスが私と共にいて下さる」と実感出来ない信仰。イエスのうめきが聞こえない復活の信仰。公教(要理)会の最大の悲劇。
ダソク:
やっと月曜日の更新に間に合った。今日、月曜日はデイサービスの日。ありがたい制度が出来たもんだ。しかし、今日は、朝からせわしかった。よそ行きの装いをさせ、入れ歯の手入れもして、…。深刻な電話相談で中断。終わってみると母が消えた。焦って、叫ぶと、トイレの中。便器に手を突っ込んでいる。焦りが怒りに。お尻ペンをしながら「かあさん!いけません!ああ、もう!」イエスのうめきとは異質。なぜか、可笑しかった。「アタシャー紙で拭おう…。」「モ、モいいの!手でしないの!こうして水で流すんです!」「勝手にしなさい。ああ、おまえナンカトと一緒ニャ暮らせん!」「ちょっと、ちょっと!母さん、あちこちさわらないで!ハイ石鹸石鹸!」イレの中でうめき合って一日が始まった。