気負うことなく淡々と
作成者 admin
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最終変更日時
2006年03月29日 11時50分
マルコによる福音マルコ8.27-38
イエスは、(略)、弟子たちに、「人々は、私のことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』という人もいます。」そこで、イエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたは、私を何者だというのか。」ペトロが答えた。「あなたはメシアです。」すると、イエスは、ご自分のことを誰にも話さないようにと弟子たちを戒められた。
それから、イエスは、人の子は、必ず、多くの苦しみを受け、長老、律法学者たちから排斥されてから殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、その事をはっきりお話になった。すると、ペトロは、イエスを脇へお連れして、いさめ始めた。イエスは、振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って私に従いなさい。自分の命を救いたいと思うものは、それを失うが、私のため、また、福音のために命を失う者は、それを救うのである。」
「誰にも話さないように。」ペトロがせっかく百点の答えをしたのに。やっぱり暗い感じのするイエスの言動。何故、誉めてはくれないのか。と思ってしまう。
しかし、ここは一つはっきりさせておかなければならない。「おまえ達はどう思うか。」待ってましたとばかりにペトロが意気込んで答えた。「あなたは救世主です!みんなもそう思っています。なあ、みんな。」他の弟子たちを促すように振り返るペトロ。大きくうなずいた弟子たちの目が一斉にイエスに注がれる。
実は、イエスは、メシアに警戒していたのだ。メシア=救世主。ローマからの独立を実現してくれる救世主。人々の中に満ちていた救世主待望論。弟子たちも例外ではなかったことは、「誰が一番偉いかと議論し合っていた」(マルコ9,34)ことで分かる。「国をお建てになるのは…。」弟子たちの中にも深く浸透している救世主待望論。事態ははっきりした。「分かった。もうよい。」イエスの制止がなければペトロの話はもっと盛り上がっていたに違いない。言っちゃ悪いが単純な人ほど思い込んだら修正が難しい。で、ペトロの答えは50点。メシアを論じる資格はない。もっと学んで貰わなければ。イエスの本音。
「排斥されて殺され…。」
「あなたは、四千人もの人々にパンを食べさせ、あらゆる病をたちどころに癒し、嵐を沈める力に満ちたお方!弱気になったりしてはいけません。」
「神のことを思わず、人間のことを思っている!…と言っても無理か。」
弟子たちに、時間がもっと必要なことを分かっていたのは一人イエスだけだった。そこに問題の深刻さがあった。
さて、このイエスの孤独な思いはいまだに癒されてはいない。二十世紀の間、教会は、「国を建てる」ために、弟子たち以上に、壮大な夢を抱き、弟子たち以上に気負いたち、波頭を乗り越え、敵対する力を粉砕して、まさに破竹の勢いを欲しいままにしてきた。科学をも裁く尊大さを神に仕えていると思った。「神のことを思ってはいた」が「人間のことに振り回されていた」事に気がつかなかった。神の優しさ、恵み、愛などといったあいまいなことより、正義や理屈、人知が全てとなった。で、みことばはたまに引用される脇役となった。
さて、この巨大な、気負いに満ち満ちた教会の絶対的権威のもとで敬けんな信仰を身につけた両親。「世界で一番すばらしいのは神父様。」何度も何度も聞かされた耳の底に今もこだまする母のシンネン。「哲学は神学のはしため(召使いの女の意)。」得意げにサトした哲学教授。そして、「あなたがたは二十四時間司祭。」日毎の講話で耳にタコ。めでたく、ナントカせねばと気負い立つ司祭誕生。
あれから二十八年。「今は無理。時間が要る。」思い続けたイエスの孤独に少しだけ思いをはせて、ナントカせねばとキオウこの頃。そんな僕に、今日の福音は、「ソウダ、ソウダ、気負うことなく、淡々と生きたらいい」と聞こえる。気負い立つ人々の視線も感じられるが、孤独のイエスとの対話の妙味。「やめないゾ!」とキオウ。
*来週はタイの田舎の別荘?で羽を伸ばしていますので、お休み。