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一杯の水に水さす権威

作成者 admin最終変更日時 2006年03月29日 11時50分

今週の聖書

マルコによる福音9,38-43 45 47

ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。私のを使って奇跡を行い、そのすぐ後で、私の悪口は言えまい。私たちに逆らわないものは、私たちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だと言う理由で、(私のにおいて)あなた方に一杯の水を飲ませてくれる者は、必ず、その報いを受ける。
私を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて海に投げ込まれてしまうほうがはるかによい。もし片方の手があなたをつまづかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかるほうがよい。もし、片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても、命にあずかるほうがよい。もし、片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入るほうがよい。

今週のポイントこんなことを言っては当り障りがあるが、あの無学で、文化果つる田舎ガリラヤ出身の純粋で素朴な弟子たちが少しづつ権威者の風格を備えてきた。
「今後、先生の名を無断で使うことのないように。」両足を踏ん張って肩を張り、両手を腰に当て、唇を引き締め威風堂々?そんな弟子たちに水を差すイエス。「余計なことを言わなくてよろしい。」
いや、イエスは、そんな弟子たちの態度に、教会がたどるであろう道を予感していた。イエスの権威の私物化。

そして、予感は的中。十字軍に魔女狩り。そして、アシジのフランシスコによる貧しさへの回帰運動。ルターの宗教改革。いずれも、肥大化した権威の産物ではあるが、後者はいずれも、権威の正常化を求めたもの。

権威者の権威はもともと人を生きやすくするためのもの。なのに、権威が私物化された。人を生きづらくさせる権威。世にこれを独裁者と言う。

教会の悲劇は、これを神の名のもとに堂々と押し付けてきたことだった。気が付いてみたら、イエスが託されたイエスの権威がかすみ、肥大化した権威者の権威がそれにとって代わった。イスラエルの轍(てつ)を踏んだ。

イエスはユダヤ教にその姿を見た。権威の正常化こそがイエスの願い。なのに、側近の弟子たちまでが早くも権威に染まろうとしている。しかも、それをイエスの意思と勘違いしていることに気づかない。

今の今も、「私たちに従わない」ことがいつも問題なのだ。司祭に従わないこと。司教に従わないこと。有力者に従わないこと。幸い人々は権威に押しつぶされないほどに成長しているが、権威の私物化に気づかないあるいは気づかせない風土は今もある。しかし、人は本来誰もが小さな権威者であることを忘れてはならない。

「人を生きづらくさせるやつは海底の藻屑となれ!」吐き捨てるようなイエスの度外れた叱責。「人の行く手を阻むような手なら切り捨てろ!人の気持ちを踏みにじるような足なら切り捨てろ!人を萎縮させるような目つき。そんな目ならえぐり出せ!」*

で、私の信仰はどうかと見ると、イエスを自分の型にはめてしまっていい気になっている。権威の下で、生きやすい道を探して生きていたらそうなった。権威を傷つけ、信者をも傷つけながら生きている。権威者も権威の下にあるものもおいしい「一杯の水」が欲しいだけなんだと少しは思えるようになった分、少しましになったかなと思うのだが…。

イエスの激しさに打たれて?品位に欠ける独断をお許しください。

*この部分の理解は、主日の朗読聖書とは違う。「…藻屑となれ!」の流れとしてこの方が自然。ちなみに、「小さくされた人々のための福音」本田哲郎著も同じ理解。


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