落差が問題
作成者 admin
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最終変更日時
2006年03月29日 11時50分
マルコによる福音マルコ10.42-45
イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなた方も知っているように、異邦人の間では、支配者とみなされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。あいかし、あなた方の間ではそうではない。あなた方の中で、偉くなりたい者は、みなに仕える者になり、一番上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は、使えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命をささげるために来た。」
僕は偉くなりたいとか一番上になりたいとは思っていない。「だから、今日の福音は僕のためではなく、そんな野心を持った人のためなんですね」とイエスに念を押したくなった。
これだけでは、話のしようもなく、第一、ミサで信者が納得するものではないし、ホームページにも書きようがないではないか。では、「仕えられるためではなく、仕えるために」というみことばでも味わうことにするか。しかし、これも、かつて、ある人々を批判するために使った便利なことばだったことが思い出されるだけで…、さりとて、イエスの口真似をする勇気もないし…。ああ、ミサの時間は迫るし…。一体何を話せというのか!
こうして、いつものように、福音の刃からひょいと身をかわし裏ワザを使うことに。
実はこの話、「あなた方も仕えることを旨としていきなさい」と教訓を垂れているのではない。問題はもっと深刻。イエスが三度目の予告、つまり、「人の子は、祭司長や律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告し(略)て殺す。人の子は三日の後に復活する」(33-34節)というイエスの悲痛な告白の直後に、「栄光をお受けになるとき、私どもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」とヤコブとヨハネが願い出たことが重大かつ深刻。
そういえば、御変容の後で、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」(マルコ9,31)と二度目の予告をしたとき、何のことか「分からなかった」(32節)ばかりか、「殺される」という言葉におののき、尋ねることすらできず、敢えて話題を変えたのだった。「誰が一番偉いかだって?そりゃ決まってるじゃないか。うちの先生だよ。」「ウンダドモ、やっぺし、ローマの皇帝デネーカ!」「先生が国を取ったら先生が一番で…。」「次はワシだな!」道々「誰が一番偉いかと議論しあっていた。」(34節)
マルコは、弟子たちの「理解の鈍さ」が半端でないことを言いたいのだ。一方、キレルことなく何度でも淡々と解き明かすイエス。師と弟子たちとのこの落差。イヤ、イエスと世の落差といえよう。そして、私との…。実は、この落差こそイエスが心血を注いで埋めようとしたことなのだ。そのための活動(言葉とワザ)を福音と言う。「人の子は仕えるために」というイエスの奉仕がそこにある。
ちなみに、ヘブライ書の著者の言葉を借りれば、「この大祭司は私たちの弱さに同情できない方ではなく、…」(ヘブライ4,15)となる。上記の落差こそ私たちの弱味なのだ。この弱みに付け込んでいくたび人を批判の刃で傷つけたことか。しかし、そんなぼくがイエスの同情の対象だったとは!ついでに言えば、「同情」は「共に感じる」のマズイ訳語。
ぼくとの落差を前に、イエスが、深いため息と共に、「何とか分かって欲しい」と祈っていたのだ。その情熱は、弟子たちに説きつづけたときと変わらない。その熱い祈りがぼくに効いた!落差は相変わらず開いたままだが、だからこそ、イエスの同じ祈りは今も続いている。それが救い!恵みと言ってもいい。
「幸いなるかな我が弱味よ!」と歓喜できたら、あなたはメデタイ救われた人なのだ。