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愛の教えではない

作成者 admin最終変更日時 2006年03月29日 11時50分

今週の聖書

マルコによる福音マルコ12,28b-34

そのとき一人の律法学者が進み出てイエスに尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟はこれである。『イスラエルよ、聞け、私たちの神である主は唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くしてあなたの神である主を愛しなさい。』(申命記6,4-5)第二の掟はこれである。『隣人を自分のように愛しなさい。』(レビ記19,18)この二つに勝る掟は他にない。」律法学者はイエスに言った。「先生おっしゃる通りです。『神は唯一である。他に神はない。』とおっしゃたのは本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また、隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす捧げ物やいけにえよりも優れています。」イエスは、律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは神の国から遠くない」と言われた。もはや、敢えて質問するものはなかった。

今週のポイント質問者の律法学者は、上述の、神への愛についての申命記の言葉が書かれた羊皮紙を小箱に入れ、額に結んでいたという。マタイ23章参照。しかし、隣人に対する愛についてはそうしなかったらしい。小箱に入れるほかの聖句の中にレビ記の隣人愛は含まれていない。だから、彼らの信仰は、神偏重で、隣人に対するレビ記のすばらしい教えを忘れた。

ついでに引用すると、「寄留者があなたの土地に共に住んでいるなら、彼を虐げてはならない。あなたたちの下に寄留する者を(略)自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである。」(レビ記19,33)「収穫後の落穂を拾い集めてはならない。ぶどうも摘み尽くしてはならない。…これらは貧しいものや寄留者のために残しておかねばならない。」(レビ記19,10)イエスの遥か以前に記された深い隣人愛。寄留者とはイスラエル社会に定住し異邦人。

だから、愛の教えは、イエスのオリジナルではない。そして、今日のマルコも愛の教えを説いているのではない。こんなにも明確に、心遣い深く記した愛の掟を持っていながら、「やもめの家を食い物にし、見せ掛けの長い祈りをする」(マルコ12,40)律法学者たちの神偏重信仰を批判し、「神への愛と隣人への愛」こそが掟の中の掟なんだと強調している。もっとも、ルカの律法学者は、この二つの愛を一つにしている(ルカ10、27)ので、二つを一つにしたのもイエスのオリジナルとは言いがたい。「二つを一つにして生き抜いた」ことがイエスのオリジナルと言えるかもしれない。

そんな議論はともかくとして、要するに、マルコは、私たちに信仰の統合を呼びかけているのだ。愛の掟を軸にした統合ではあるが、愛の掟と真っ向勝負しては勝ち目がないどころか、信仰の奥ゆかしさを損ねてしまう危険がある。弱気な自分としては、愛の掟を、「ありのままを認め合う」とか、「受け入れる」とか言い換えたりして、できるだけやんわり行くことにしているのだが…。一ひねりした統合を目指していると言っていいかもしれない。で、マルコからヘブライ書にシフトして、言い換えながら統合を図ると…。

「イエスは、永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、ご自分を通して神に近づく人たちを完全に救うことがおできになります。」(ヘブライ人への手紙7,24-25)昨日のミサの第二朗読。

赤文字は、「イエスが今も私たちのために祈っていてくださる」という意味。だから、ここまで来れた。だから、あの人を赦せた。だから、立ち直れた。だから、和解できた。だから、頑張れた。だから、司祭にもなれた。などなど…。だから、これからも生きていける。だからこれからも赦せる。だから、これからも絶望することはない。だから、これからも頑張れる。だから、これからも和解できる。だから、これからも司祭としてやっていける。などなど…。こうして、明るい地平が開けていくようなら、あなたは、「神への愛、人への愛」の軸足を固めた信仰の統合をやってのけたことになる。信仰の統合?だから、祭司イエスの祈りに生かされて、穏やかで前向きな気持ちになること。

蛇足:ミサの「共同祈願」という言い方は日本だけでは?ちなみに英語では「執り成しの祈り」。他の言語は知らない。集まった民の共同の祈願である「共同祈願」と集まった民が「叙階の秘跡を受けていない祭司」として捧げる「執り成しの祈り」。日本語の問題だけでは済まされない日本典礼の貧しさを感じてならない「共同祈願」。


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