裸の王様?に惹かれて
作成者 admin
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最終変更日時
2006年03月29日 11時50分
ヨハネによる福音ヨハネ18.33-37
その時ピラトはイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えでそう言うのですか。それとも、他の者が私について、あなたにそう言ったのですか。」ピラトは言い返した。「私はユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前を私に引き渡したのだ。一体、何をしたのか。」イエスはお答えになった。「私の国はこの世には属していない。もし、私の国がこの世に属していれば、私がユダヤ人に引き渡されないように、部下(助手)が戦ったことだろう。しかし、実際、私の国はこの世に属していない。」そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「私が王だとは、あなたが言っていることです。私は真理について証するたっめに生まれ、そのためにこの世に来た。心理に属する人は皆、私の声を聞く。」
「王様、と聞くとどんなことが思い起こされますか?」
「冠!」もう一人が元気よく答えた。「裸の王様!」
近くの知的障害児施設「希望の星学園」でのミサの説教を始めた時の一こま。高等部の武田さんの答え、「裸の王様!」には意表を突かれた。もちろん、彼女は、この施設の運営母体が、「クリストロア(王たるキリスト)宣教修道女会」であることを意識して言ったわけではないのだが…。しかし、教会の歴史に思いを至らせるには十分なインパクトがあった。
連想が連想を生んだ。僕は思わず、大きな祝い日のミサで司教様たちが被る大きな帽子を連想したのだった。そして、「そう言われてみれば、あの帽子は確かに『冠』だな」と納得した。気まぐれに引いた広辞苑にはこうある。
「裸の王様…(アンデルセン作の同名の童話の主人公から)高い地位にあって、周囲の反対がなく、自分の思いがすべてかなうため、自己を見失っている気の毒な人。」そう言えば、乱暴な言い方をすれば、みんながカトリックになったヨーロッパで、戦(いくさ)好きな教皇が現れたりした。十字軍がそうだ。そんな、「気の毒な」先輩の過ちを現教皇は陳謝したのだが…。
昨日のミサの後で、シスターたちに同じ質問をした。「茨の冠です。」なるほど、十字架のイエスは裸だった。文字通り裸の王様?
いずれにしろ、僕にとって「イエスが王」と言われても取ってつけたようでしっくり来ない。王と言えば、せいぜい、天皇陛下のことかと思う程度だ。魅力も何にも感じない。で、王であるキリストはいわゆるカトリックの勝利主義の匂いがして好きになれないのだ。だから、説教には苦労した。
だから、前置きが長くなったが、今日のみ言葉のキーワードは王ではなく、「真理について証する」にした。真理というのもまた厄介な言葉だが、真実と言い換えてもいい。誠実でもいい。真実、誠実、まごころ。イエスはこれを百パーセントの純度で生き抜いた。だから、真理とはイエスそのものとも言える。そして、そんなイエスが僕を呼んだ。もちろん、もともと、「助手」(「部下」の別訳)に過ぎないのだから、彼ほどの純度で生きられるわけはないが、自分なりに彼の真心を探し続ける旅をしたいと思っている。そして、僕にとってそれが彼(真理)を証することになると思えるようになった。
こうして、書いて物を言う分にはまだいいが、実際の人間関係の中では、イエスの三点セット(真実、誠実、まごこころ)はかなり怪しくなる。「気の毒な人」の一人になることはしばしば。それでもめげないのは、「彼は僕を捨てない」というジシンのせいだ。僕のいい加減さで左右されないイエスの一途さに救われている。彼の最大の魅力と言っていい。もっとも、自分の身勝手さを思わないわけではないが、そして、「証し」などとおこがましくて一人赤面するとこもあるが、それほど落ち込まないですむのは、単におめでたい性格のせいばかりでもない。そんな、ガタガタの信仰を、何とか、自分の言葉にしたいと思っている彼との旅を楽しんでいるだけだ。
自分のガタガタの真理(心理)を証ししてしまった。悪しからず。