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ドブに咲くバラのように…

作成者 admin最終変更日時 2006年03月29日 11時29分

今週の聖書

使徒パウロのフィリッピの教会への手紙1,4-6、8-10

あなた方一同のために祈るたびに、いつも喜びを持って祈っています。それは、あなたがたが最初の日から今日にいたるまで、福音にあずかっているからです。あなた方の中で、良い業を始めれた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、私は確信しています。私が、キリスト・イエスの愛の心で、あなた方一同のことをどれほど思っているかは、神が証してくださいます。私はこう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなた方の愛が益々豊になり、本当に重要なことが見分けられるように。(略)イエス・キリストによって与えられる義のみをあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとを称えることができるように。

今週のポイントリスト教徒の迫害者として名をはせたパウロが、こともあろうに、そのキリストの伝道者となった。そして、かつてキリスト教徒を投じていた牢に今度は自分が投ぜられた。この手紙は、ローマの獄中からしたためたものだと言われる。

フィリッピはギリシャ北方の町で、パウロがアジアからヨーロッパに向けて伝道活動を展開した時の最初の地。獄中のパウロを案じたフィリッピの信者たちから受けた励ましの募金に対するお礼状ということになっている。

ところで、「良い業を始めた方」とは神のこと。良い業とは、「福音にあずかっている」こと、つまり、キリスト信者となって、首尾一貫して信仰を生きているということ。自分のことを案じて募金したりしたことも含めて。そうしたことは、全て、神の働きと見るパウロの理解の仕方に注目すべき。自分の伝道活動を誇るのでなく、また、信者たちの善意を称えるだけでなく…。一方、信仰するということも、その人の努力だけで実を結ぶのではなく、神が、「その業を成し遂げてくださる」ことを忘れてはならない。

ここに、信者として生きる時に忘れてならない視点、「人生の恵性*(メグミセイと読む。筆者の造語」)がある。このことを、「知る力と見抜く力とを身に着けて」、生きることこそが、「神の栄光と誉れとを称える」というつかみ所のない命題を我が手にすることができる。

20年も前のことになろうか。一人息子をフランシスコ会の修道士として捧げた大司さんのこと。朝、ミサに行く時、ドブに捨てられたバラのつぼみに心が痛んだ。数時間後、ミサの帰りに同じバラを見て驚いた。つぼみが開いていたのだ。神様が下さる命は、ドブに捨てられても開こうとする!大司さんは感動した。

当たり前は当たり前でない、と知る時、人はおのずと神を称えるようになる。このセンスで生きる時、おそらく、人は、ドブとしか思えない苦難の中にあっても、「人生の恵性」に気付くようになるのだろう。パウロが、獄中というドブの中から信者たちを励まし、祈ることができたように。

もっとも、家庭の諸問題、人間関係などなど、手ごわい問題は多い。それでも、パウロの祈りは根源的問いを突きつけている。

*「人生の恵性」は、「人間は本来受身的存在である」と同義。


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