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作成者 admin最終変更日時 2006年03月29日 11時30分

今週の聖書

使徒パウロのフィリピの教会への手紙4,4-7

皆さん、主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなた方の広い心が全ての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いを捧げ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなた方の心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

今週のポイント今日の日曜日は、待降節第三主日と呼ばれる。救い主イエスの降誕を準備する待降節は、もう一回の日曜日で終わる。救い主の誕生が近いことを強調するかのように、今日のミサで読まれた聖書(旧約の預言書と上記の手紙)には「喜び』の文字が躍る。合計六回も。そして、三つ目の聖書ルカ福音書では、「私たちはどうすればいいのでしょうか」(ルカ3,10-14)という質問が三回繰り返される。その答えが、「喜びなさい」ということになる。

ということにして、話をすすめると…。まず、「喜」という漢字は、下は「口」で上は「御ちそう」のこと。ご馳走を前に思わず、「ひやーすごいご馳走だ!」と歓声を上げる意味だという。もっとも、ご馳走の種類によって人それぞれ歓声の上げ方も違うだろうが、いずれにしろ、喜びの語源を食べることにたどるのはうなづける。

このことを理解したうえで、話は更に飛躍する。

奄美にも自主トレの野球選手やどこかの会社の陸上選手たちがやってきた。彼らには練習メニューというのがあるという。楽なものから、歯を食いしばってこなすものまでいろいろあるに違いない。一つ一つを目標に向かっての最善のものと考えるので手を抜かない。

話を戻すと、「常に喜びなさい」というのは、簡単にできそうにないので、信者の大きな目標ということにする。この目標に向かって、神様は一人一人に違うメニューを下さると考えてみる。つまり、神様からの練習メニューというのがある。しかも、それは、その人その人にとって最善のメニューだと考えてみる。渇いたのどを潤す甘露の真清水(ましみず)もあれば、たっぷり苦味の利いたものもある。苦味どころか、とても口にできそうにない激辛メニューだってある。

そんな時、「あー、これも神様が下さったメニューなのか」と、あなたが考える。もちろん、そんな風にあっさり思えないことがあるとしても。そのように解釈できた時、「あなたの心と考えは守られた」とパウロは言うだろう。そして、そんな風に解釈できたとしたら、あなたはもはやそのメニューを過小評価できないはずだ。けなげにも、「神様いただきます」としか言えまい。それこそ、信者の心意気というもの。何とかメニューをこなしたというささやかな満足感もあるはずだ。いや、「常に喜べ」という大目標に向かっての大きな一歩なのだ。

これは、かなりの練習メニューをこなした信者と言えよう。今日のミサで、悦郎君が初めての朗読をした。拒んだが断りきれなかったらしい。ぼくは祈りながら思った。「ああ、悦郎君は神様のメニューを一つこなしたな」と。そんなところから、激辛メニューにも対応できる力がつく。「私たちはどうすればいいのでしょうか?」ご健闘を祈ります。


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